田舎教師ときどき都会教師

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児玉真美 著『安楽死が合法の国で起こっていること』より。大きな絵を描くと同時に、小さな物語を大切にすること。

 もう生きられないほど苦しいという人がいるなら死なせてあげたい、そういう人のために安楽死を合法化してあげようと考える人たちが善意であることは疑わない。けれどひとりひとりの善意が集まって世論を形成し、その世論の勢いに押されて(乗じて?)制度となった(された?)ものは、人々の善意とはまた別のダイナミズムによって動き始める。安楽死という選択肢をもった社会は、政治や経済やその他もろもろの思惑を孕んだ力学によって、当初の善意からも意図からもかけ離れたところへと動かされていくのだ。そのリアルなリスクを、本書の「大きな絵」から感じてもらえればと思う。
(児玉真美『安楽死が合法の国で起こっていること』ちくま新書、2023)

 

 こんばんは。第一次産業から第二次産業へと「大きな絵」が描きかえられたときに「身体障害」という言葉が人口に膾炙したという説と、第二次産業から第三次産業へと「大きな絵」が描きかえられている今だからこそ「発達障害」という言葉が際立っているという説は、

 

 パラレルです。

 

 先日、贈与論で知られる近内悠太さんの講座に参加したときにそんな話を聞きました。第一次産業よりも第二次産業、第二次産業よりも第三次産業の方が複雑なのは間違いありません。私たちの脳はサバンナの時代からほとんど変わっていないのに、社会はこんなにも複雑になってしまって、

 

 ついていけない。

 

 身体に障害を抱えている人たちであったり、発達に障害を抱えている人たちであったりが、複雑化していく社会に適応できなくなるのは当然です。QOLもダダ下がり。

 

 

 児玉真美さんの『安楽死が合法の国で起こっていること』があまりにもおもしろかったので、私にしては珍しく、読了ツイート(ポスト)への追記(セルフリプ)を続けたところ、

 

 思いがけずリプ。

 

 

 

 近内さんがリプをくれました。ぜひ、リプライツリーを開いて読んでみてください。何か神々しいものが隠されているかもしれません。

 

 

 児玉真美さんの『安楽死が合法の国で起こっていること』を読みました。できるだけ多くの人に手にとってほしい一冊だと思います。安楽死が合法の国では何が起きているのか。授業だったら100点の発問でしょう。目次は以下。

 

 序 章  「安楽死」について
 第1部 安楽死が合法化された国で起こっていること
 第2部  「無益な治療」論により起こっていること
 第3部 苦しみ揺らぐ人と家族に医療が寄り添うということ
 終 章  「大きな絵」を見据えつつ「小さな物語」を分かち合う

 

 安楽死の細かい分類(積極的安楽死、医師幇助自殺、等々)についての説明は省略しますが、第1部によると、広義の意味での「安楽死」が合法化されているのは、ベルギー、オランダ、ルクセンブルグ、コロンビア、カナダ、ニュージーランド、オーストラリア、スペイン、ポルトガル、スイス、オーストリア、米国のオレゴン、ワシントン、モンタナ……って、もうこれ以上は書きませんが、どんどん増えているそうです。著者曰く《過去7年足らずで倍増》&《今後も加速度的に増えていくことが予想される》とのこと。もしかしたら日本でも合法化に向けての話し合いが水面下で行われているかもしれません。

 

 2022年に日本の映画『PLAN75』が話題になった際、75歳以上の高齢者が国に安楽死をサービスとして提供する制度について、多くの人がリアリティーの薄いSFまがいの設定として受け止めたようだが、オランダではすでにそれが現実の法案となっている事実をどれだけの人が知っているだろうか。

 

happinet-phantom.com

 

 知りませんでした。

 

 知っていたのは、少し脱線しますが、ミリオンセラーとなった鶴見済さんの『完全自殺マニュアル』が「いざとなれば自殺してしまってもいいと思えば、苦しい日常も気楽に生きていける」と提唱していたこと。安楽死の文脈に戻すとこうなります。いざとなれば安楽死できると思えば、苦しい日常も生きていける。子どもたちにも聞いてみたくなります。この見方・考え方は、

 

 どう?

 

 安楽死という問題解決策が存在することによって、その手前で模索され、尽くされるべき医療や福祉や支援の努力の必要に関係者も社会も目を向けなくなれば、安楽死は耐え難い苦しみを抱えた人への最後の救済手段ではなく、苦しんでいる人を社会から排除する安直な ―― そして最も安価な ―― 問題解決策となってしまう。

 

 小さな物語としてはOKだとしても、大きな絵、すなわち制度になるとOKではないということがわかるでしょうか。しっかりと考えないと、あっという間に「社会保障費削減策としての安楽死」になってしまうというわけです。児玉さんはそのような変質を「すべり坂」と表現しています。

 

「すべり坂」とは生命倫理学の議論で使われる喩えで、ある方向に足を踏み出すと、そこは足元がすべりやすい坂道になっていて、一歩足をすべらせたら最後どこまでも歯止めなく転がり落ちていくイメージだ。

 

 ちょっとしたきっけかで経済的に滑り落ちると、はい上がるのが難しい社会のことを「すべり台社会」と名付けたのは湯浅誠さんです。事故や病気など、ちょっとしたきっかけで経済的に滑り落ちて、QOLが下がってもうはい上がる気力もないから安楽死でいいや、なんて思わされてしまう「すべり台社会+安楽死の合法化」がまともなはずがありません。ツイート(ポスト)にも引用しましたが、児玉さんの《気になるのは、安楽死の対象者が終末期の人から障害のある人へと拡大していくにつれ、安楽死が容認されるための指標が「救命できるかどうか」から「QOLの低さ」へと変質していると思えることだ》という危惧は、

 

 重い。

 

 では、なぜそのような変質が起こっているのでしょうか。児玉さんはその背景にある「無益な治療」論について第二部で説明しています。簡単にいうと、患者本人や家族が治療の続行を望んでも、医師の判断で治療を中止してOKという「論」のことです。この「論」をベースにした病院プロトコルがコロナ禍を機に世界中に拡がり、アメリカのテキサス州では法律にもなっているとのこと。この法律のもとでは、患者本人や家族ではなく、医師が「この治療は無益か」を決めることになります。問題は、その問いがいつの間にか「この患者は無益か」に変質しているということ。

 

「救命できるかどうか」から「QOLの低さ」へ。
「この治療は無益か」から「この患者は無益か」へ。

 

 安楽死の文脈においても、「無益な治療」論の文脈においても、患者の「生きる or 死ぬ」という自己決定は蔑ろにされ、生きるに値するかどうかを医師が決めるみたいな話にすべっていっているというわけです。ちなみに教育に置き換えると「この指導は無益か」から「この児童は無益か」になるわけですが、そんなふうには、

 

 すべりにくい。

 

 なぜなら、教育は「無時間的」モデルではなく、変容(成長)こそが目的だからです。それにしても、児玉さんが「QOLの低さ」だったり「この患者は無益か」だったりに解像度高く迫っていけるのは、

 

 なぜなのか?

 

 重い障害のある娘を持つ親の立場で、これまで36年間それなりに濃密に医療と付き合ってきた。医療について患者家族の立場で思うことは多々ある。いつのまに海外の障害と医療や生命倫理をめぐる事件や議論を追いかけるようになったのも、今にして振り返れば、重い障害のある娘を通じて医療と関わってきた個人的な体験が原点だった。

 

 第3部より。当事者なんですよね、児玉さんは。だから、輪郭のはっきりとした「小さな物語」をもっているんです。近内さんが講座の中で、しばしば物語ることの大切さを説いていました。

 

 小さな物語を共有すること。

 

 おやすみなさい。