田舎教師ときどき都会教師

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マイケル・サンデル 著『実力も運のうち』より。能力主義は正義ではない。

 GDPの規模と配分のみを関心事とする政治経済理論は、労働の尊厳をむしばみ、市民生活を貧しくする。ロバート・F・ケネディはそれを理解していた。「仲間意識、コミュニティ、愛国心の共有 ―― われわれの文明のこうした本質的価値は、ただ一緒に財を買い、消費することから生まれるのではありません」。その価値観を生むのはむしろ「十分な給料が支払われる尊厳ある職です。働く人が『自分はこの国をつくるのに手を貸した。この国の公共の冒険的大事業に参加した』と、コミュニティや、家族や、国や、それに何よりも自分自身に向かって言えるような職なのです。
 そのように語る政治家は、いまではほとんどいない。ロバート・F・ケネディ以降何十年も、進歩派の大半はコミュニティや愛国心や労働の尊厳をうたう政治を放棄し、代わりに出世のレトリックを駆使してきた。
(マイケル・サンデル『実力も運のうち』ハヤカワ文庫、2023)

 

 おはようございます。先週の金曜日の夜に、総合の授業でコラボしている地域の人たち&個人的に関わっているNPOの人たち&親父の会の人たちと一緒に飲む機会があって、楽しすぎました。まさに《本質的価値》であり《コミュニティや愛国心や労働の尊厳》あってのこの仕事だなと思います。世界平和の基礎を築く、

 

 初等教育。

 

世界平和に向けて、冒険的大事業(2024.1.26)

 

 親父の会のメンバーさんたちはみなスーツでした。来月に予定している「逃走中」のリハーサルをしていたそうです。子どもたち、喜ぶだろうなぁ。能力主義が正義とみなす「出世のレトリック」から遠く離れて、無償でのイベント企画。

 

 私が場をつくり、場が私をつくる。

 

 これは場づくりのプロとして知られる長田英史さんの『場づくりの教科書』に出てくる言葉です。子どもたちにも「私が教室をつくり、教室が私をつくる」と言い換えてしばしば引用しているこの名言に倣えば、親父の会のみなさんがやっていることは「私が地域をつくり、地域が私をつくる」でしょう。そんな地域で育った子どもたちは、将来、出世のレトリックではなく、コミュニティや愛国心や労働の尊厳に価値を置き、こんなふうに思うかもしれません。

 

 私が国をつくり、国が私をつくる。

 

 

 能力主義は正義ではない。

 

 

 マイケル・サンデルの『実力も運のうち』(鬼澤 忍=訳)を読みました。作家の平野啓一郎さんが「日本人もみんな読むべきじゃないか、というくらい非常に重要な本です」と帯に推薦文を寄せているように、その重要性をシンプルに表現したタイトルが素晴らしい。授業でいうところの「発問」のかたちをしたサブタイトルも素晴らしい。

 

 能力主義は正義か?

 

 単行本が出たばかりのときに書店で見かけ、黒板に「運も実力のうち」「実力も運のうち」と書いて、子どもたちに「どちらが正しいと思いますか?」と訊ねた記憶があります。意味がわからない(?)という表情をしている子には次のように補足した記憶もあります。

 

 あなたのテストの点数がいいのは努力か、運か?

 

 これ、大事な「問い」ですよね。そして「答え」はもっと大事です。教員なら当然ピンとくるででしょう。子どもたちの多くは「努力」と答えますが、正解はもちろん、

 

 実力も運のうち。

 

 家庭環境に大きく左右されるからです。だから私たち教員は、努力の価値を説きつつも、実力も運のうちであることを、すなわちあなたのテストの点数がいいのは「運」であるということをオブラートに包みつつ折にふれ伝えていかなければいけません。そうしないと、能力主義(メリトクラシー)という用語の生みの親である社会学者のマイケル・ヤングが60年以上も前に喝破していたように、テストの点がいい子にはおごりを、そうでない子には屈辱を育んでしまう可能性があるからです。実際、クラスの中にもそういった傾向にある児童・生徒がいるのではないでしょうか。出世のレトリックの雛形ともいえる受験のレトリックにからめとられた児童・生徒のことです。

 

 過去40年にわたり、能力や「値する」といった言葉が公的言説の中心を占めるようになってきた。能力主義への転換の一つの特徴は、能力主義の過酷な側面を示すものだ。それは、個人の責任という厳しい考え方に現れている。この考え方に伴って、社会保障制度を抑制し、リスクを政府や企業から個人へ移そうという試みがなされてきた。能力主義への転換の二つ目の特徴は、いっそうの上昇志向だ。それが見て取れるのが、出世のレトリックとでも言うべきもの、つまり、懸命に努力し、ルールに従って行動する人びとは、才能と夢が許すかぎりの出世に値するという保証である。個人の責任というレトリック、また出世のレトリックは、この数十年の政治論議を活気づけてきたが、結果として、能力主義に対するポピュリスト的な反発の一因となった。

 

 第3章の「出世のレトリック」より。出世のレトリックが公的言説の中心を占めるようになってしまったというのがポイントです。小学校で言えば、最高学年の6年生が「学校をどうするか」や「クラスをどうするか」、「委員会をどうするか」や「行事をどうするか」よりも、受験やテストの点数のことばかりが気になってしまっているような状況です。「公」よりも「私」優先ということ。そして問題は、その「私」の実力が「運」でできているということを理解しないまま大人になっていく子どもが多いということです。

 

 ヤマダくんはある教科でいつも100点をとる。スズキくんは80点しかとれない。でも、0点ばかりとっている隣のサトウくんを気の毒に思って、やり方を教えたので、サトウくんは30点がとれるようになった。100点のヤマダくんが80点のスズキくんより高い評価を受けるのは、受験では当たり前のことです。でも、労働の場では違います。

 

 内田樹さんの『街場の教育論』より。スズキくんは「実力も運のうち」であることがわかっているのでしょう。だから運の悪かったサトウくんのことを「気の毒」に思うことができます。一方、たまたまお金持ちの家庭に生まれたヤマダくんは、受験のレトリックにからめとられ、「運も実力のうちでしょ」なんて口に出してしまうくらいおごり高ぶっている可能性があります。だからサトウくんのことを「気の毒」に思うことができません。マイケル・サンデルが『実力も運のうち』の中で伝えようとしていることは、あるいはマイケル・ヤングが《能力主義は目指すべき理想ではなく、社会的軋轢を招く原因》であると警鐘を鳴らしていたのは、スズキくんのような大人がどんどん減っていって、ヤマダくんのような大人がどんどん増えていったらヤバくない(?)ということです。

 

 ヤバイ。

 

 90年代の後半くらいまでは、組合に入っているような先生が、私たちのような団体にも興味を示してくれて、一緒に活動することができたんですよね。でも、今は、そういったことがあまりできません。学校の外で子どものための活動をしているNPOの人たちがそんな話をしていました。学校の先生が「出世のレトリック」にからめとられ、長時間労働も相まって、閉鎖的になっていることが原因のように思います。

 最後に、目次と、それから引用をもうひとつ。ちなみに第6章の「選別装置」は学校について書かれているので、分厚くて読むのはちょっと……、という学校関係者の人も、立ち読みでもいいので、ぜひ開いてみてください。きっと、購入したくなります。

 

 プロローグ
 序論
 第1章 勝者と敗者
 第2章「偉大なのは善だから」―― 能力の道徳の簡単な歴史
 第3章 出世のレトリック
 第4章 学歴偏重主義 ―― 容認されている最後の偏見
 第5章 成功の倫理学
 第6章 選別装置
 第7章 労働を承認する
 結 論 能力と共通善
 

 だが、共通善に到達する唯一の手段が、われわれの政治共同体にふさわしい目的と目標をめぐる仲間の市民との熟議だとすれば、民主主義は共同生活の性格と無縁であるはずがない。完璧な平等が必要というわけではない。それでも、多様な職業や地位の市民が共通の空間や公共の場で出会うことは必要だ。なぜなら、それが互いについて折り合いをつけ、差異を受容することを学ぶ方法だからだ。また、共通善を尊重することを知る方法でもある。

 

 結論より。金曜日の夜が楽しすぎたのは、地域の主催者が「教育居酒屋」と呼んでいるその集まりが、マイケル・サンデル言うところの《多様な職業や地位の市民が共通の空間や公共の場》になっていたからなのだろうなと思います。

 

 午後から休日出勤です。

 

 実力も運のうち。

 

 

街場の教育論

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