田舎教師ときどき都会教師

テーマは「初等教育、読書、映画、旅行」

ボブ・グリーン 著『デューティ』より。原爆を落とした男のこと、知っていますか?

「トヨタを購入する前に躊躇しませんでしたか?」
「わたしはその日本車が気に入っている。なんの含むところもない。いい製品だし、理想どおりだった。だから購入したのだ」
「おかしな気分にはなりませんでしたか?」
「全くならなかった。わたしは日本人に敵意を抱いたことは一度もない。われわれの敵は体制だった――当時の日本政府という体制だったのだ。
 だが、一般の日本人に対して悪感情を抱いたことなど、一度もない」
(ボブ・グリーン『デューティ』光文社、2001)

 

 こんばんは。なぜ中学校の先生は、あるいは高校の先生は、この本を勧めてくれなかったのだろう。そう思うことがしばしばあります。今回紹介するボブ・グリーンの『デューティ』もそういった類いの一冊です。猪瀬直樹さんの『昭和16年夏の敗戦』や『昭和23年冬の暗号』と同様に、

 

 義務教育段階で読みたかった。

 

 

 広島に原爆を落としたエノラ・ゲイの搭乗員たちは、その後、罪の重さに耐えきれず、気が狂ってしまった。誰に吹聴されたのかは覚えていませんが、都合よく(?)そんなふうに思い込んでいました。さらに、次のようなイメージももっていました。原爆を落としたのは、まさしく浜田知明(1917-2018)が「ボタン(B)」で描いたような男なのだろう。何も考えず、何も見ずに、原爆投下のボタンを押してしまう、いちばん左側の、

 

 人格を奪われた人。

 

ボタン(B) | 名品紹介 | コレクション | 町田市立国際版画美術館

 

 何も考えず、何も見えていなかったのは私でした。以前、社会と図工と道徳をミックスした授業の教材として「ボタン(B)」を取り上げたことがあります。その際、子どもたちに「浜田知明さんのこの作品は、ヒロシマをモチーフにしたものであり、浜田さんは『核と戦争の構造と恐怖を、冷静にとらえたのではないか』と自負していたそうです。最後に決定的なボタンを押したのは、このいちばん左側の、頭部を覆われ、人格が抹殺されている男。浜田さんがこの絵を通して伝えたかったことは何だったのか、わかりますか?」というようなことを話した気がします。しかし、

 

 間違いでした。

 

 これまた思い込みでした。原爆を落とした男ことポール・ティベッツは、人格を失ってなどいませんでした。むしろ徹頭徹尾、

 

 聡明だった。

 

 

 ボブ・グリーンの『デューティ』を読みました。サブタイトルは「わが父、そして原爆を落とした男の物語」です。訳者は山本光伸さん。この本を知り、読もうと思ったきっかけを与えてくれたのは沢木耕太郎さんです。沢木さんのブック・エッセイ『夢ノ町本通り』に《『DUTY』は、第二次世界大戦で広島に原爆を落とした「エノラ・ゲイ」のパイロット、ポール・ティベッツに対するインタビュー記、もしくは交際記とでもいうべきものである》とあり、思い込みにひびが入ると同時に好奇心が芽生え、アマゾンのボタンを、

 

 ポチッ。

 

 搭乗員たちのリーダーであったティベッツに、ボブは自身の亡き父の姿を重ねながら尋ねます。小学5年生の国語の単元でいうところの「きいて、きいて、きいてみよう」のように尋ねまくります。ティベッツはすでに80代。ボブの父もティベッツと共に第二次世界大戦に出征した軍人でした。しかも、ボブの父とティベッツは同じ州の同じ町に住む同時代人でもありました。偶然も重なれば、縁です。

 

 縁は、育むもの。

 

 ボブは尋ねます。父は軍人としての階級に並々ならぬ誇りをもっていたのに、アメリカ合衆国への愛国心についてはほとんど語らなかった。一体どうしてなのか、と。ティベッツは、愛国心について次のように答えます。

 

 愛国心という言葉は、曖昧模糊としている。実戦で戦っているとき、われわれの胸にあるのは、いわゆる愛国心ではない。仲間の死なのだ。
 戦場では、仲間が粉々に吹き飛ばされる瞬間を目にする。そのときに感じるのは、愛国心ではない。吐き気だ。

 

 だからわれわれは話さないのだ、と。ものすごいリアリティーです。そのリアリティーを支えているのは、ティベッツの言葉の解像度の高さでしょう。言い換えると、聡明さです。

 

 私が知りたかったことも、ボブは尋ねてくれます。

 

 ぼくはティベッツに尋ねた――彼らが投下した原爆の惨事で苦しんできた人たち、たとえば、屋上の少年のことを書いてきた女性のような人たちは、ティベッツとその搭乗員が人間にもたらした破壊行為はどんな勝利にも値しないと考えているが、彼らは間違っているのだろうか?
「いや」それはほとんど囁きに近い声だった。「彼らは間違っていない。当然だとさえ思える・・・・・・」
「でも、あなたの話によれば、すべて戦争終結のために必要だったことになるのでは?」
「あの日の出来事に対しては、彼らとわたしでは関わり合い方が違っている」ティベッツは答えた。
「わたしは、彼らとは異なった立場であの日に関わっていた。
 しかし、だからといって、彼らが間違っていることにはならない。だれが間違っているのか、何が正しくないのか、わたしにはわからない。
 自分が正しいかどうかもわからないのだ」

 

 冒頭の《一般の日本人に対して悪感情を抱いたことなど、一度もない》というコメントといい、この《あの日の出来事に対しては、彼らとわたしでは関わり合い方が違っている》といい、どちらも人格を失った男の発言ではありません。気が狂った男の発言でもありません。むしろ人格者です。だからこそ、

 

 種々考えます。

 

 原爆を落とした男は、まともだった。聡明でさえあった。その男の話に耳を傾けていると、戦争に対する見方・考え方がじわじわと変わっていった。そういったもろもろを踏まえ、訳者である山本さんは「あとがき」に次のように書きます。

 

 日本人として、広島への原爆投下を、大戦を終結させるための必要悪だったと単純に片付けることはできない。あれはジェノサイド(ある人種・国民に対する計画的な大量虐殺)ではなかったのか、パールハーバー攻撃の事前情報を米政府の最上部層が握りつぶしたという事実はどうなるのか、日本は当時すでに疲弊しきっており、本当に広島、さらに長崎への原爆投下は必要だったのか。我々にはアメリカに問い質したいことが山ほどある。
 しかしながら、ボブ・グリーンが本書で伝えようとしているのは、そういうことではない。

 

 山本さんの父も軍人だったんですよね。そして、ティベッツやボブの父と同様に、無口だったとのこと。沢木耕太郎さんはこのあとがきを読み、山本さんの父に対して強い関心を覚えたと書いています。それにしても、《最上部層が握りつぶした》というところは、猪瀬直樹さんが『昭和16年夏の敗戦』で描いた「日本の最上部層」と同じで、やはりこう思ってしまいます。

 

 トップが元凶だと。

 

 学校も、然り。