田舎教師ときどき都会教師

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ピート・ハミル 著『ニューヨーク・スケッチブック』より。恋愛というのはできるうちにせっせとしておいた方が良い。

 長い沈黙のあとで、彼女は声をふるわせて言った。「あたし、あの頃とは見分けがつかないくらい老けちゃったわよ」
「おれだってそうさ」サルの声は、歌手志望の頃の低音域に落ちた。
「あたし、成人した子供が三人いるの。それから、毎日庭の手入れなんかしているし、教会にも通っているのよ。すっかり退屈な人間になっちゃったわ」
「おれだってそうさ」
「あの、それでいつ、あの、こっちにはでてくるつもり?」
「今夜だよ」
(ピート・ハミル『ニューヨーク・スケッチブック』河出文庫、1986)

 

 こんばんは。ピート・ハミルは巧い。いつか僕も『ニューヨーク・スケッチブック』のようなものを書いてみたい。ショートショートの神様こと星新一さんが、生前、酒場でよくそんなことを口にしていたそうです。バックパッカーの神様こと沢木耕太郎さんが、ブック・エッセイ『夢ノ町本通り』にそう書いていました。

 

 おれだってそうさ。

 

 その酒場で、沢木さんが星さんに対して、サルと同じような言葉を返したかどうかはわかりませんが、神様二人が話題にするのだから、いつか私も、

 

 読んでみたい。

 

 

 著者であるピート・ハミル(1935ー2020)のことを寡聞にして知らなかったので、訳者である高見浩さんの「あとがき」を先に読みました。ハミルは「ニューヨーク・ポスト」紙や「ニューヨーク・デイリー・ニュース」等の大衆紙を活躍の場にしていたジャーナリストで、コラムニストとしても、小説家としても有名だったようです。ハミルと交遊を重ねていたという高見さんによると、曰く《生身の彼は、あのジャックリーン・ケネディや名女優のシャーリー・マクレーンと浮名を流したのもむべなるかなと思わされるような、男の色気をちょっと感じさせる、磊落なナイス・ガイ》だったとのこと。要するに、

 

 モテたのでしょう。

 

 そんなハミルを射止め、妻となったのは、ジャーナリストで作家の青木冨貴子さんというのだから驚きです。まぁ、青木さんのことも寡聞にして知らなかったのですが、いずれにせよ、やはりこう思います。

 

 モテたのでしょう。

 

 

 ピート・ハミルの『ニューヨーク・スケッチブック』を読みました。ニューヨークを舞台にして繰り広げられる34編の人生スケッチと、映画『幸福の黄色いハンカチ』(山田洋次 監督作品)の原作として知られる「黄色いハンカチ」が収録されている短編集です。訳者は高見浩さん。高見さんも、

 

 巧い。

 

「あの」マロイはおずおずと笑った。「クレア・・・・・・できたら、これからもときどき会ってもらえないだろうか、どこかで一杯やるとかして」
 言ったとたん、彼は後悔していた。クレアの顔は再び無表情になり、彼女は目を細くすぼめて言った。
「ロバート、わたしは夫がある身なの・・・・・・」
「ああ、わかってる。すまない」
 マロイはクレアの細い手を握った。彼女は微笑して戸口に歩みより、たちまち人込みにのまれていった。

 

 冒頭の引用もそうですが、こういった場面に「わかるなぁ」「切ないなぁ」と思える年齢になってしまいました。もともと新聞のために書いた短編ということで、対象としているのがアラフォーだったりアラフィフだったりするのでしょう。おもな主題は《人生における危機の瞬間であり、愛とその不在であり、都会の孤独であり、忍びよる過去の重み》です。つまり『東京・スケッチブック』としても読めるということ。ちなみに冒頭のサルの物語も、このマロイとクレアの物語も、ラストに至る直前の場面を引用したのですが、この後の締めくくりの文章が、

 

 巧いんです。

 

 ぜひ手にとって読んでみてください。あなたのごく近しい隣人たちに出会えることでしょう。
 ハミルの世界に浸っているときに、同じく「巧い」作家として知られる村上春樹さんの文章を思い出しました。

 

 これです。

 

 でもたしかにいろいろと大変ではあるのだけれど、人を恋する気持ちというのは、けっこう長持ちするものでもある。それがかなり昔に起こったことであっても、つい昨日のことのようにありありと思い出せたりもする。そしてそのような心持ちの記憶は、時として冷え冷えとする我々の人生を、暗がりの中のたき火のようにほんのりと温めてくれたりもする。そういう意味でも、恋愛というのはできるうちにせっせとしておいた方が良いのかもしれない。大変かもしれないけれど、そういう苦労をするだけの価値は十分にあるような気がする。

 

 村上さんが翻訳をしている『愛しくて』というラブ・ストーリー集のあとがきより。著者として名を連ねているのは、マイリ・メロイ、デヴィッド・クレーンズ、トバイアス・ウルフ、ペーター・シュタム、ローレン・グロフ、リュドミラ・ペトルシェフスカヤ、アリス・マンロー、ジム・シェパード、リチャード・フォード、そして村上春樹さんです。あとがきの最初が《僕は「ニューヨーカー」誌を定期購読しており、それほど忙しくない時期にはそこに掲載されているフィクションに、毎週ざっと目を通すようにしている》だったので、もしかしたらピート・ハミルも、と思いましたが、ハミルは載っていませんでした。ハミルと同様に、村上春樹さんも、

 

 モテたのでしょう。

 

 二人とも、仕事の傍ら、せっせと恋愛にも励んでいたに違いありません。先日、PISA2022の結果が公開され、日本の子どもたちは引き続き好成績だったという報道がなされていました。でも、生涯未婚率は男28.3%、女17.8%(2020年)です。成績なんて少しくらい悪くてもいいから、生涯未婚率が下がるような何かをした方がいいんじゃないかな。

 

 ここ2週間、体調が優れません。

 

 暗がりの中のたき火が恋しい。