以前、私は書く側における「方法への疲労」というものについて考えたことがあった。明確な方法意識を持って書きつづける書き手には、ある時、その方法に対する疲労感とでもいうべきものが生まれ、そこからの脱出を夢見るようになるのではないか、と。しかし、「方法への疲労」は、書く側ばかりでなく、読む側にもあることなのかもしれなかった。少なくともその時の私は、純然たる「ラピエール=コリンズ・スタイル」で書かれた『愛より気高く』を読んで、軽い疲労感のようなものを覚えてしまったのだ。それは必ずしもテーマがエイズだからというのではないように思えた。
(沢木耕太郎『夢ノ町本通り』新潮社、2023)
おはようございます。通知表という、法的には作成義務のない仕事に追われ、法的には確保されているはずの土日が今まさに台無しになろうとしています。教科道徳でいうところの「家庭生活の充実」もへったくれもありません。「生命の尊重」すら危ういような気がします。だから、書く側における「所見への疲労」というものについて、それなりの立場にいる人たちには、ぜひ真剣に考え、議論してほしい。いったい、学校はいつまでこんなサービスを続けるつもりなのか、と。明確な方法意識を持って書きつづける担任には、ある時、その方法に対する疲労感とでもいうべきものが生まれ、そこからの脱出というか、
年度末に1回書けば、よくね?
そういった考えが当然の如く浮かんできます。読む側の保護者だって、純然たる「公僕スタイル」で書かれた所見を読んでも、有り難い(!)とはならないでしょう。少なくとも、保護者としての私は、担任に対して「勤務時間外に所見を書くのであれば、そんなものは要らないから、本を読むなり旅に出るなりして、子どもたちにおもしろいエピソードのひとつでも語ってほしい」と毎年のように思っていたし、長女と次女の学校アンケートにもオブラートに包んでそう記述していました。担任批判ではありませんよ。それなりの立場にいる人批判です。まぁ、いずれにせよ、こんな晴れた日曜日の朝には、所見なんて書くのはやめて、
夢ノ町本通りに行きたい。
沢木耕太郎さんの『夢ノ町本通り ブック・エッセイ』を読みました。ブリア・サヴァランの『美味礼讃』でいうところの「あなたが普段から食べているものを教えて欲しい。あなたがどんな人であるか、当ててみせよう」を援用すれば、このブック・エッセイは、沢木さんのファンの「あなたがこれまでに読んできたものを教えて欲しい。あなたがどんな人であるか、もっと知りたいんです」という願いに応えてくれる一冊といえます。三島由紀夫、モハメッド・アリ、小田実、山本周五郎、等々。収録されている全36編に加えて、当時26歳だった沢木さんが、あの『深夜特急』の旅に出る直前に書いたという幻のエッセイも、
初収録!
私にとって、まず本屋とは、家の斜め向いにある貸本屋だった。小学校にあがるかどうかの年頃から、毎日漫画を借りていた。恐らく365日のうち借りない日が10日あったかどうかというくらいであった。過剰に商売熱心な夫婦で、1時間でもオーバーすると、半日分の借り賃が没収されるのである。しかし、ただそればかりではなかった。正月には決まって10円札で3枚、30円のお年玉をくれた。よく借りてくれたからというのだ。使っている額に比べれば、まさにスズメの涙というばかりのものだったが、ひどく嬉しかったのを覚えている。
その幻のエッセイ「書店という街よ、どこへ?」より。沢木さんはその貸本屋で、本のおもしろさと同時に、人のおもしろさも学んだんですよね、きっと。貸本屋の夫婦に「過剰」という形容詞がついているのが、その証拠のように思います。沢木さんはこの幻のエッセイを書くにあたって、大阪梅田の紀伊國屋書店で取材がてらに「丁稚奉公」の見習いのようなことをしたそうですが、そこには「過剰」さはなく、曰く《人との交流は絶無といってよいほど》だったとのこと。《今、紀伊國屋書店の書店員の誰が、客に「愛憎」を抱かせることができるであろう》とも書いています。
過剰さ。
例えば、学校の司書さんが「過剰」な人だったら。例えば、本屋の店員さんが「過剰」な人だったら。その「過剰」さに感染して、子どもたちが本を好きになる蓋然性って、めちゃくちゃ高くなると思うんですよね。そういった意味で、子どもたちと本をつなぐ大人の存在は重要です。私の場合は、
担任として、そうありたい。
以前はかなりの親近感を抱いていたボブ・グリーンの著作も、最近はほとんど手にすることがなくなり、この『DUTY』(山本光伸 訳)が久しぶりに読んだ彼の作品だった。
『DUTY』は、第二次世界大戦で広島に原爆を落とした「エノラ・ゲイ」のパイロット、ポール・ティベッツに対するインタビュー記、もしくは交際記とでもいうべきものである。
そこにおける主要なテーマは、原爆投下という行為が何だったのかを問い直すことだが、その奥に、ポール・ティベッツを通して自身の亡き父を理解しようというもうひとつのテーマがあった。
なぜボブ・グリーンはポール・ティベッツが父を理解する手掛かりになりうると考えたのか。それは、同じ州の同じ町に住む同時代人であったからであり、共に第二次世界大戦に出征した軍人であったからだ。
で、肝心の36編のブック・エッセイはといえば、やはり桁違いの読書量だなぁということと、紹介されている本を読みたくなるなぁということと、魅力的な本だけでなく魅力的な人がたくさん出てくるなぁということと、本と人と旅は親和性が高いなぁということと、沢木さんはモテただろうなぁということと、日本の小学生は経済産業省と総務省に踊らされてタブレット漬けになっているけど大丈夫かなぁ、大丈夫じゃないなぁということなど、種々思ったり考えたりしました。上記の引用は「半歩遅れの読書術」というエッセイから引用したものですが、
読みたくなりますよね?
ショートショートの名手である星新一も、酒場で会うとよくこんなことを言っていたものだった。「ピート・ハミルは巧い。いつか僕も『ニューヨーク・スケッチブック』のようなものを書いてみたい」
— CountryTeacher (@HereticsStar) December 3, 2023
ピート・ハミルの『ニューヨーク・スケッチブック』を読みたくなった。沢木耕太郎さんは巧い。#読了 pic.twitter.com/OfuCxPKmuy
どこを切っても同じ顔が出てくる金太郎飴のように、どのページを開いてもシェアしたくなるエピソードが出てきて困ります。ぜひ、夢ノ町本通りに足を運んで、この困り感を共有してください。所見地獄とは違って、仕合わせな困り感です。
自宅では集中できないので出勤します。
行ってきます。