この種の話は、苛立ち、もしくは反発を引き起こすかもしれない、あるいは、悪趣味だと非難されるかもしれない。何であれ、あることを経験したということが、それを書くという侵すべからざる権利を与えてくれるのである。真実に優劣の差はない。それに、この経験との関係を最後まで突き詰めないならば、私は女性の現実をおおい隠すのにひと役果たすことになるし、この世の男性支配に与することにもなってしまう。
(アニー・エルノー『嫉妬/事件』ハヤカワ文庫、2022)
こんばんは。11月29日に社会学者の宮台真司さんが首を切られて重傷を負った事件、憤りを覚えます。昨日、宮台さんが、ビジネス映像メディア「PIVOT」の YouTube チャンネルに「犯人の目的が、言論の萎縮であれば、こちら側としては、いささかも萎縮するわけには参りません」というメッセージを寄せたそうですが、そうは言っても、気が気でないことは確かでしょう。似たような話を作家の猪瀬直樹さんも書いていました。道路公団の民営化に取り組んでいたときに、毎日のように《殺すぞとか無言電話の強迫》があったとのこと。パブリック・マインドをベースに、言論の力+α で世の中をよりよくしようとがんばっている憂国の士への弾圧、
許せません。
女性が自由意志で生む・生まないを決定するリプロダクティブ・ヘルス/ライツ(生殖に関する健康と権利)だって、言論の自由がなければ、認められることはなかったはずです。アニー・エルノーが自らの経験を《本という公共の空間》に差し出したのも、冒頭の引用(『事件』より)にもあるように、世の中をよりよくしたいという「シンプルな情熱」がベースにあってのことでしょう。今年、ノーベル文学賞を受賞したのも、猪瀬さんが『公』で記したところの《個別・具体的な「私の営み」を、普遍的な「公の時間」につなげるのがクリエイティブな作家の仕事》であるということを、A・エルノーが、「あのこと」を体験している彼女が、当然のこととして血肉化しているからだと思います。
アニー・エルノーの『嫉妬/事件』を読みました。「嫉妬」(堀茂樹 訳)と「事件」(菊地よしみ 訳)の二篇を収録している作品です。後者の「事件」は映画化され、一昨日の金曜日から『あのこと』(オードレイ・ディヴァン監督作品、第78回ヴェネチア国際映画祭金獅子賞)というタイトルで劇場公開されています。事件(あのこと)というのは、
大学生の妊娠中絶のこと。
妊娠中絶の映画といえば、こちらは高校生ですが、昨年の夏に観た、エリザ・ヒットマン監督の『17歳の瞳に映る世界』(第70回ベルリン国際映画祭銀熊賞)を思い出します。娯楽ではなくアートゆえ、観ているとしんどくなる映画です。「事件」も然り。だから正直、映画『あのこと』は観たくない。
傷つくから。
宮台さんがいうには《「心に傷をつけること」がアートの伝統的な本質》であり、アートというのは《「社会の中」に閉じ込められている人々に「社会の外」を突きつける営み》だそうで、『17歳の瞳に映る世界』も『事件』も、まさに「社会の外」すなわち「世界」を突きつけてきます。
その後マダムP・Rには一度も会っていないが、彼女のことはしょっちゅう考えていた。自宅はみすぼらしかったけれども、たぶん強欲だったあの婦人は、それと知らずに、わたしの母親性を引き抜き、わたしを世界のなかに投げ入れた。彼女にこそ、この本は捧げられるべきだろう。
彼女が23歳だった1960年代、フランスでは中絶が違法だったそうです。マダムP・Rというのは違法を承知でけっこうな額のお金と引き換えにその手伝いをした婦人のこと。アメリカでは今なお妊娠中絶が大きな政治的争点になっているようですが、A・エルノーは自身の経験を自身の文体で生々しく綴ることで、妊娠中絶というものがどういうリアリティーをもっているのかを私たちに伝えます。
法律と社会秩序が個人を苦しめる。
公の時間につながっている私の営み。
17歳だったオータムと同様に、23歳で一流の大学に通う彼女も、妊娠が発覚し、中絶するまで、頭の中は、お腹の中の赤ちゃんをどうするかということでいっぱいになります。占拠されるということ。まぁ、当然なのかもしれません。思いもよらなかった事態だろうし、労働者階級から抜け出すチャンスも失うわけですから。ちなみに「占拠」をフランス語でいうと、
L’Occupation
もう一つの作品「嫉妬」の原題です。別れた男の新しい女のことで頭がいっぱいになり、その女を特定するという欲望以外には何も感じなくなっている、嫉妬に駆られた「私」の話。宮台さんを襲撃した犯人も、頭の中は宮台さんのことでいっぱいだったのでしょう。宮台さんの言葉でいえば「閉ざされ」です。ただし、閉ざされているとはいえ、「私」がその女に何か危害を加えることはありません。全ては頭の中で完結し、冷静です。「嫉妬」にせよ「事件」にせよ「シンプルな情熱」にせよ、頭の中がひとつのことでいっぱいになっているのに、そのことを客観的にとらえ、それこそが生の充実感だ(!)とばかりに淡々と綴っていくところが、A・エルノーの文体の魅力であり、多くの作家に嫉妬の感情を抱かせている力でしょう。
最後に「私」は次のように語ります。いや、ネタバレになるので引用するのはやめておきましょう。クラスの子どもたちが本を紹介するときに使う常套句を使えば、
意外と薄くて読みやすいのでぜひ読んでみてください。
ぜひ。