「そして、イギリスに連れ帰ってくれる船長に言われるんだ。『ちょっと一つ気になるんだが、どうしておまえは、そんなに大声で喋るんだ?』と」
「大声で? どういうことですか」
「ガリヴァーは、巨人と一緒にしばらく暮らしていたから、喋る時はいつも、でかい声を出さないといけなかったんだ。塔の上の男に、道路から呼びかけるような、そんな大声を出さないと巨人には聞いてもらえなかったらしいからな」
「だから、帰ってきても、声が大きかったんですか。それは可笑しいな」
(伊坂幸太郎『仙台ぐらし』集英社、2015)
こんばんは。小人の国に行けば巨人のように扱われ、巨人の国に行けばペットのように扱われる。ガリヴァー自身はほとんど何も変わらないのに、周りの国が変わるだけで、巨人になったりペットになったりする。スウィフトの古典『ガリヴァー旅行記』のおもしろさは、そういったところにあるような気がします。
むかし、次女にせがまれて枕元で読み聞かせをしたときに、そんなことを考え、「パパは今、こう思ったんだけど」と話したことを覚えています。読み聞かせスキルでいうところの「考え聞かせ」ってやつです。残念ながら、次女には「?」というリアクションをされてしまいましたが。
人間は、置かれた環境によって、変わる。
ベトナムの古都フエにある「Pilgrimage Village」という素敵なホテルで働いていた友人のもとを尋ね、歓迎を受けた12年前の夏。バンコクのカオサンロードや香港の重慶大厦(チョンキンマンション)、カルカッタのサダルストリートなどにある、バックパッカー御用達(?)の安宿にしか泊まったことのなかった身としては、はじめて足を踏み入れる「星」のつく世界に、ちょっと興奮。友人による友人のための友人の価格(特別ディスカウント)に感謝してもしきれませんでした。
持つべきものは友です。
安宿に泊まっていると、自然と『書を捨てよ 町へ出よう』みたいな気分になるのですが、ホテルがあまりにも快適すぎると、なかなかそういった気分になれません。人間はたしかに、置かれた環境によって変わります。日がな一日、泳ぎ、そして本を読む、束の間のフエぐらし。写真を見ていたら、そのときに読んでいた本が「顕示的消費」という言葉で知られるソースティン・ヴェブレンの『有閑階級の理論』で、あっ、なんかあのシチューエーションにぴったりだな、と。
せっかくなので『有閑階級の理論』から知恵を借ります。ちなみに副題は「制度の進化に関する経済的研究」です。以下、訳者である高哲男さんの解説より。
だが、「決まり」も「規則」も「しくみ」もすべて人間によって決められ、かなり長期にわたって習慣的に維持されてきたものに過ぎない。朝令暮改されるものは、ふつう「制度」とは呼ばれないから、突き詰めて考えると、制度とは、結局生活している人々が慣習として受け入れている行動規範であり、「考え方」に根ざすものであることが分かろう。
(ソースティン・ヴェブレン『有閑階級の理論』高哲男 訳、ちくま学芸文庫、1998)
Twitter 等に「給特法の改正を求めたことが、変形労働時間制の導入につながってしまった」や「現行給特法の厳密・適切な運用を求めるべきだった」などという意見が出ています。正しいような気もするし、結果論のようにも聞こえます。
法としての制度。
思考習慣としての制度。
制度には上記の2つの側面があって、ヴェブレンは後者の「思考習慣としての制度」に注目し、『有閑階級の理論』を書いています。そこにあるのは「人間はいかなる理由で、どのように行動するのか」という視点。高哲男さんは、その視点ゆえ、ヴェブレンはデューイ流のプラグマティズムを共有していると解説します。
そのことに倣えば。
わたしたち教員も「法としての制度」ではなく「思考習慣としての制度」に注目して働き方改革を進めた方がいい。つまり、掲示物は貼らないとか、通知表の所見は1年に1回にするとか、夏休みのプール指導はやらないとか。「子どものため」という考え方を改め、まずはそういった現場の慣習をひとつひとつをなくしていった方がいい。だから鍵となるのは、やっぱり校長と教育委員会かな(もちろん、教員一人ひとりも)。
人間は、置かれた環境によって、変わる。
変わってしまうんですよね、偉くなると。
そこが問題だ。