本書は宮台真司を批判する(ぶっ飛ばす!)本である。そして、私に与えられた課題は、彼の教育論を批判することである。しかし、何を隠そう、私は彼の教育論に結構共感してしまっている。
(諸富祥彦 編著『〈宮台真司〉をぶっとばせ! ”終わらない日常” 批判』コスモス・ライブラリー、1999)
おはようございます。ゴールデンウィークは今日で終わりですが、終わらない自粛は続いていきます。昨日の首相会見によると、目に見えないウイルスへの恐怖や不安な気持ちに打ち勝つためには敬意と感謝と絆が必要とのこと。こどもの日だったからでしょうか。道徳の授業における教師の説話のように聞こえました。もちろん敬意と感謝と絆が「ねらいとする道徳的価値」です。一コマで扱うにはちょっと多いなぁ。そろそろ『〈安倍晋三〉をぶっとばせ! ”終わらない自粛” 批判』なんて本が出されるかもしれません。
25年ほど前だから、その時のイメージは「朝生の宮台」だと思います。 https://t.co/i7YWPti6Bo
— 宮台真司 (@miyadai) May 5, 2020
宮台真司さんが「終わらない日常」という言葉で一世を風靡してから早25年。終わらない自粛の陰で、輝かしい未来もハルマゲドンもやって来ないという終わらない日常が淡々と続いています。自粛はそのうち終わりますが、構造としての日常は宮台さんの予言通り終わりそうにありません。あれから四半世紀経った今も、宮台さんがぶっとばされることなく第一線で活躍していることがその証拠でしょう。朝生の宮台が予言し、マル劇の宮台が固めた、終わりなき日常を生きろという定言命法。その有効性が失われることはありません。
昨日、ラッキーなことに Twitter で宮台さんに絡んでもらえたので、せっかくの「僥倖」だからと思い、諸富祥彦 編著『〈宮台真司〉をぶっとばせ! ”終わらない日常” 批判』を再読しました。学生のときに読んだ本です。懐かしいなぁ。執筆者は現職の教員を含めて10人(臨床心理士の諸富祥彦さんをはじめとするトランスパーソナルな仲間たち)。おそらくは宮台さんのことが好きで好きで仕方なくて、「愛憎半ばする」或いは「かわいさ余って憎さ百倍」といった感覚でつくられた本だと想像します。読むとわかりますが、執筆しているみなさんの愛が行間からあふれ出ています。
宮台真司。
今、日本で、この男ほど、その鮮やかな理論で人々をうならせ、また同時に、反発を買いまくっている人もいないだろう。どんなに批判を食らおうともひるむことなく、次々と斬新かつ大胆なプランを提示していくその姿は、学者として、また男として、かなり理想に近い。素直に、カッコイイとさえ思う。
諸富祥彦さんの書いている「はじめに」の冒頭からしてこうです。ちなみに諸富さんの専門であるトランスパーソナル心理学というのは、ラディカルに換言すると「どんな時も、人生には意味がある」ということを掘り下げていく学問で、宮台さんの「意味から強度へ」を標榜した「終わりなき日常を生きろ」とは真逆の道を行きます。
表裏一体、真逆だからこそこの本が編まれた。
要するにヘーゲルです。弁証法です。アウフヘーベンです。カッコイイ。ちなみに諸富さんは「教師を支える会」の代表を務めており、現場教師の作戦参謀とも言われています。宮台さんも、ゆとり教育を推進した寺脇研さんの作戦参謀だったと言われていることから、二人とも教育に一家言どころか、二家言も三家言もある、行動を伴った論客ということです。二人のことをよく知らない若い先生たちにもそれぞれのカッコよさが伝わるのではないでしょうか。
教育論批判。
冒頭の文章は「第4章 教育論批判」から引用しました。書いているのは文教大学教授の会沢信彦さん(当時は函館大学専任講師)です。この第4章に書かれている内容(想定しているのは中学校)が「with コロナの時代」を予言しているかのようで、おもしろい。会沢さんが批判している、或いは共感している宮台さんの当時の教育論は、次の2つの背景(不登校やいじめなどの諸問題の背景)と3つの処方箋から構成されています。
【諸問題の背景】
➊ 満員電車状況
➋ 学校化状況
【処方箋】
①クラス制度の解消
②個人カリキュラム化
③ホームベース制
背景➊の満員電車状況というのは「いっしょにいる理由のない人間と、3密空間に長時間いつづけなければいけない」という状況が不登校やいじめなどの問題を生んでいるという話です。だから①②として、クラス制度を解消し、さらには個人カリキュラム化を導入して子どもに試行錯誤するチャンスを与えましょうという処方箋が提示されています。
おわかりかと思いますが、現在、コロナ禍を奇貨として、宮台さんの提示した①②が実際に処方されつつあります。教室に大人数で長時間いることはできない。だからICTを使って自宅で学習するしかない。その内容は一人ひとりが考え、選択しなければいけない。そういった非・満員電車状況の萌芽です。諸富さんの考えを引き、ゆるやかな学級であればOKと考えていた会沢さんも、賛成する方向性ではないでしょうか。
問題は➋の学校化状況。
これは家庭も地域社会も「学校に適応していれば安心」や「いい成績さえとっていれば安心」といった学校的な価値観に覆われてしまっているという話です。上野千鶴子さんに『サヨナラ、学校化社会』という著作がありますが、サヨナラどころかヨウコソの状況が続いているというわけです。一般的にいって、周囲からの評価のものさしが単一になればなるほど、価値観が均一になればなるほど、人は生きづらくなります。だからこの➋はまずい。金沢さんも《意外なほど常識的な言説である》と共感しています。
この状況を変えるための処方箋として、宮台さんは③を提示します。具体的には、大人の目の入らない、子どもたちの隠れ家をつくること。金沢さんの文脈ではこれは➊の処方箋として書かれていますが、➋にも効果があるように思います。ただしこれは with コロナの時代には難しい。ステイホームだと、大人の目から逃れることはなかなかできないからです。仲間同士で価値観をつくりあげ、それを共有するという体験を得ることも、ままなりません。
ICTで学校と家庭がダイレクトにつながったりすると、余計に学校化状況が濃くなるような気がします。宮台さんが『学校を救済せよ』に《過剰に親や教師が背負わなくても済むようなシステムが模索されなければならないんです》と書いているように、家庭でも学校でもない別の何かが社会システムとして構築されるのを期待したいところです。
さて、最後に一つだけ、宮台に異を唱えたい。
批判ではなく共感が先走ったまま最後までいってしまいそうだった金沢さんの論考ですが、最後に〈宮台真司〉をぶっとばすための批判が一つだけ書かれています。それは「教師や親はおそらく変わらないであろう」という宮台さんの見解に対して《教師や親は、変わらなければならない。実際、変わることができると、私は信じている》という批判です。
さて、正しかったのはどちらでしょうか。
コロナと共に、終わりなき日常を生きろ。