田舎教師ときどき都会教師

テーマは「初等教育、読書、映画、旅行」

小川糸 著『食堂かたつむり』より。新鮮な心で、厨房に立っていたい。新鮮な心で、教壇に立っていたい。

 薪割り作業を終えた熊さんと一緒にお昼の釜揚げうどんを食べた後、私はさっき摘んできた山ブドウを丁寧に洗って煮つめ、バルサミコ酢の仕込みにかかった。
 完成するのは、十二年後。どんな味に生まれ変わるのか、目を閉じて想像してみる。
 もしかしたら途中で失敗してしまうかもしれない。けれど、十二年後も、こうして私は同じように新鮮な心で、厨房に立っていたい。そんな強い願いを込めて、私は慎重にバルサミコ酢の原液を煮沸消毒した瓶の中に詰め込んだ。

(小川糸『食堂かたつむり』ポプラ文庫、2010)

 

 こんばんは。一昨日の午後に卒業生が遊びに来てくれて、教室で約3時間、中学入学から中学2年生の1学期までの生活を微に入り細に入り「かたつむり」のごとく説明してくれました。そして昨夜は13年前の教え子たちがミニ同窓会に招待してくれて、食堂で約4時間、どんな味に生まれ変わったのかを10歳だった頃の懐かしさを残した声で教えてくれました。

 

 

 食堂かたつむりを訪れるリピーターのように、教え子たちが「もと担任」のところへ足を運びたくなるよう、いつまでも新鮮な心で教壇に立っていたい。そんな強い願いを込めて、この夏、私は慎重に心と体のメンテナンスをします。なにせ教員採用試験の倍率が過去最低を記録するようなひどい労働環境です。リフレッシュしないと、次の夏までもちませんから。

 

 

 小川糸さんの『食堂かたつむり』を読みました。小川さんの処女作であると同時に代表作でもあります。初めて読んだ小川さんの本(『あつあつを召し上がれ』)があまりにも美味しかったので、心と体のメンテナンスのために、1学期が終わったら「すぐに読むべき本」として「積ん読」していました。いわば食後のデザートです。その味はといえば、映画にもなっているだけのことはあって、漫画にもなっているだけのことはあって、そしてイタリアの文学賞であるバンカレッラ賞料理部門賞も受賞しているだけのことはあって、どこをとっても、

 

 美味しい。

 

www.countryteacher.tokyo

 

 恋人の突然の失踪によって声を失うほどのショックを受けてしまった主人公の倫子が、母親の暮らす田舎へ戻って「食堂かたつむり」を開き、学校の言葉でいうところの「個に応じた」料理を提供することで少しずつ元気を取り戻していくというのがプロットです。メインディッシュは創作料理で、隠し味はお客さんとのやり取りと、母親との関係性の変化でしょうか。いや、逆かな。いずれにせよ、読み終えたときの読後感は、『あつあつを召し上がれ』のときと同じように、声に出したくなるものでした。

 

 ごちそうさま!

 

 ココアが温まるのを見計らい、最後にたっぷりのはちみつと、隠し味に最高級のコニャックを数滴たらす。そして、五分だて程度に泡だてた生クリームを雲のようにそと浮かべてみる。その上に、新鮮なミントの葉っぱを一枚飾った。ミントには、精神を落ち着かせる作用があるから、今の梢ちゃんにはちょうどいい。

 

 飲みたくなりますよね。梢ちゃんというのはお客さんです。《今の梢ちゃんにはちょうどいい》というところが学校でいうところの「指導と評価の一体化」のように思えてしまって、うん、職業病です。倫子は、人生に絶望し、喪服しか着なくなってしまった寡黙な老婦人や、何とかして恋愛を成就させたいという高校生など、十人十色のお客さんを相手に、個に応じた《ちょうどいい》料理を考え、最高の料理を振る舞います。1日1組の予約だけだから、食材研究もばっちり。司法によって1コマ5分と算定された教材研究とはわけがちがいます。いずれにせよ、メニューも食材も調理方法も、お客さん次第。授業の内容も教材も教え方も、子どもたち次第。

 

 マザー・テレサの授業、よく覚えています。
 面積の授業も、覚えています。

 

 昨夜、23歳になった教え子たちがそんなふうに話してくれて、嬉しく思いました。4年生のときの道徳と算数。どちらも思い入れのある授業で、教師冥利に尽きます。倫子の場合は、

 

 料理人冥利に尽きる。

 

 最初は、「食堂かたつむりの料理を食べると恋や願い事が叶う」というまことしやかな噂がひとり歩きして、正直、物珍しさで来てくださるお客さまも少なくなかったのだけれど、最近は、一度そうやって私の料理を食べてくれた人が、「もう一度食べたい」と、今度は単に味だけを評価して、ふつうの食堂としても利用してくれるようになっていった。それは料理人冥利に尽きる。名誉あることだった。

 

 食堂かたつむり、大繁盛です。料理よし、お客さんよし。しかしそれでも、倫子の声は元に戻りません。物語の構造上、倫子の声が元に戻らないことには「ごちそうさまでした」とは、

 

 いえない。

 

 だから、商売が軌道に乗った後に、起承転結でいうところの「転」がやってきます。

 

 一度からまった糸って、なかなかほどけないものね。

 

 倫子の母親の言葉です。そもそも倫子が都会に出ていたのは、母親との関係がうまくいっていなかったからなんですよね。というわけで、これ以上は書きませんが、物語は終盤、母親と倫子の関係にその軸足を移していきます。ちなみに昨夜、ひとりの教え子曰く、

 

 うちの親、離婚しちゃったんですよ。

 

 人生いろいろ。