田舎教師ときどき都会教師

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マルティン・ブーバー 著『我と汝』(野口啓祐 訳)より。ごん、youだったのか。

〈われ〉ー〈なんじ〉の根源語は、自分の全身全霊を傾けて語るよりほか方法がない。わたしが精神を集中して全体的存在にとけこんでゆくのは、自分の力によるのではない。しかし、そうかといって、自分なしでできることでもない。まことに、〈われ〉は、〈なんじ〉と出会うことによってはじめて、真の〈われ〉になるのである。わたしが〈われ〉となるにしたがって、わたしは相手を〈なんじ〉と呼びかけることができるようになるのである。
 すべての真実なる生とは、まさに出会いである。
(マルティン・ブーバー『我と汝』野口啓祐 訳、講談社学術文庫、2021)

 

 こんばんは。5月29日の月曜日に年休を大胆に駆使して代官山へ行き、社会学者の宮台真司さんの特別講演を聞いてきました。特別講演のタイトルは、マルティン・ブーバー『我と汝』から読みとく「なぜ、あなたは生きづらいのか」です。目当ては昔からのファンである宮台さんであり、生きづらさについての「なぜならば」を聞くために参加したわけではありませんが、その前に、

 

 なぜ、読みづらいのか。

 

 3週間くらい前に『我と汝』が送られてきて、当日までに読むぞ(!)と意気込んでいたものの、あまりにも難しく、途中で挫折。特別講演のタイトルに倣って「なぜ、この本は読みづらいのか」といえば、それは宮台さん曰く「単体ではなく思想史の流れの中で理解する」必要があるから、とのこと。思想史の流れというのは、要するに文脈のことです。ブーバーはどのような時代を生きていたのか。その時代に影響力をもっていた思想家は誰だったのか。当時、どんな著書が広く読まれていたのか。なぜブーバーは『我と汝』を書こうと思ったのか。社会学者はそういったことを踏まえた上で『我と汝』を読み解くそうです。つまり、この本だけを読んでも深く理解することはできないということ。研究授業を1回だけ見たところでそのクラスの何がわかるの(?)という話と同じです。ちなみに宮台さんは『我と汝』を中学2年生のときに読んだそうです。学校の先生に勧められたとのこと。おそらくその先生は思想史の流れも宮台さんに教えたのでしょう。教員になってからも本を読み続けていたのでしょう。サウイフモノニ、ワタシハナリタイ。それにしても、久しぶりに見たリアル宮台さん。とっても元気そうで、

 

 ホッ。

 

 

 

 マルティン・ブーバーの『我と汝』を読みました。光村図書の国語の教科書に載っている「ごんぎつね」(4年生)でいえば、ごんと兵十。「なまえつけてよ」(5年生)でいえば、春花と勇太。それから「帰り道」(6年生)でいえば、律と周也が「我と汝」です。ポイントは、それぞれが「別に私じゃなくてもいいじゃん」みたいな存在ではないということ。交換可能な「それ」ではないということ。

 

 世界は、人間の経験の対象となるとき、〈われ〉ー〈それ〉の根源語に属す。
 これに反して関係の世界は、他の根源語、〈われ〉ー〈なんじ〉によって作り出される。

 

 宮台さんは「汝」のことを「you」(他者、自然、霊的存在)と話していました。つまり、〈われ〉に対する〈それ〉と、〈われ〉に対する〈なんじ〉は、「it」と「you」の対比ということになります。

 新美南吉の「ごんぎつね」を例にすると、ごんにとっての兵十は、兵十の母親が亡くなって以降、「it」ではなく「you」です。兵十の存在がごんの生き方に重さと輪郭を与えているからです。兵十がいなかったら、ごんが「償い」という行為に価値を見い出すことはなかったでしょう。逆に、兵十にとってのごんは「it」です。でも、最後のシーンで「you」に変わります。いつものようにくりやまつたけを兵十の家に届けに来たごんが、兵十に撃たれてしまうシーンです。倒れた「it」がくりやまつたけを届けてくれていたことに気づいた兵十はこう言います。

 

 ごん、youだったのか。

 

 もとい、ごん、お前だったのか。ここで「我と汝」が一体となります。だから、心に残る。もしかしたら新美南吉は、ブーバーのことを意識していたのかもしれません。

 

 われわれはいま、政治に、経済に、思想に、もはやどうにもならない世界的な行きづまりにぶつかっているが、その根本的原因が〈われ〉にのみとらわれた近代思想にあることを指摘し、現代人はすべからく〈われ〉ではなく、〈われ〉ー〈なんじ〉の間にある関係を出発点として考えてゆかねばならないと主張するブーバーの卓見は、かならずや読者の心に深い感銘をあたえることであろう。

 

 野口啓祐さんによる訳者解題より。宮台さんも同様のことを話していました。どうにもならない世界的な行きづまりにぶつかっているのは、多くの人が「我と汝」の関係を結ぶ力を失っているからだというわけです。

 

 友達をつくる力すら失っている。

 

 アダム・スミスは『国富論』において、人々の心の中に「同胞感情」がある場合にのみ、市場はうまく回ると言いました。ジャン・ジャック・ルソーは『社会契約論』において、人々の心の中に「ピエティー」のような道徳的な感覚や責任感がある場合にのみ、社会はうまく回ると言いました。もしも「同胞感情」や「ピエティー」を欠いた人々が増えていったとしたら、世の中はどうなってしまうのか。学校でいえば、もしも「同胞感情」や「ピエティー」を欠いた子どもや保護者が増えていったとしたら、クラスはどうなってしまうのか。宮台さんの言葉でいえば、ずばり、

 

 荒野になる。

 

 宮台さんの話をまとめると、ブーバーが『我と汝』を書いたのは、そういった危惧があってのことだったようです。資本主義が勢いを増せば増すほど、行政官僚制(手続き主義)が勢いを増せば増すほど、システムの構造上、入れ替え可能な存在、つまり〈われ〉ー〈それ〉ばかりになっていって、〈われ〉ー〈なんじ〉によって作り出される関係の世界は縮小し、市場も社会もうまく回らなくなるだろう。そこに宮台さん独自の卓見を付け加えれば、日本には「カワイイ」カルチャーがあって、それが「you」を回避させるためのツールになってしまっている、となります。これらの文脈こそが「なぜ、あなたは生きづらいのか」の答えです。

 

 では、どうすればいいのでしょうか。

 

 答えは、出会いの中に。