田舎教師ときどき都会教師

テーマは「初等教育、読書、旅行、映画」

筑摩書房編集部 編、宮台真司、大澤真幸、他『コロナ後の世界』より。これ、めちゃくちゃいいから読みなよ。

 屋上や非常階段からの風景は、いつも見る街の風景とは違うし、夜の公園の風景も、いつも見る昼間の公園の風景とは違う。25年前に書いた「地上70センチの視線」論のように、地べた座りもそうだった。人が行き交う渋谷センター街の路上で地べた座りをすれば、いつも見慣れた街の風景が一変する。仲間で座れば皆で「社会の外」に出られる。
 一定の作法を通じて、当たり前の社会が、突然「社会の弱い場所=世界に通じる場所」を現出させる。読者は好きな人と観覧車に乗ったことはないだろうか。「ここを昔の屋上だと思おうよ」と言って二人で抱き合えば、「社会の弱い場所=世界に通じる扉」を自分たちのものにできる。地べた座りの若者と同じく、一瞬にしてアジールに入れるのである。
(筑摩書房編集部 編『コロナ後の世界   いま、この地点から考える』筑摩書房、2020)

 

 こんばんは。中高生の頃、好きな音楽に出会うと「これ、めちゃくちゃいいから聴きなよ」って友人によく勧めていました。同じような感覚で、宮台真司さんの文章を読むと「これ、めちゃくちゃいいから読みなよ」と思います。初めて読んだときからずっとそう思っています。20年以上前から。みんな読めばいいのにって。そうすれば社会が少しよくなるかもしれないのに。

 保護者にも勧めたくなります。幼少期の危険を伴う外遊びの大切さがわかるから。大切なのは宿題じゃない。宮台さん曰く《ブランコでの立ち飛びや座り飛びに象徴される危険な外遊びでは、果敢な友達の身体性にシンクロして自分もやろうと動機づけられる。~中略~。こうした共同身体性が共通感覚の前提になり、この共通感覚が絆に満ちた共同性の共通前提になる》云々。

 

コロナ後の世界 ――いま、この地点から考える (単行本)

コロナ後の世界 ――いま、この地点から考える (単行本)

  • 発売日: 2020/09/03
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

 筑摩書房編集部 編『コロナ後の世界 いま、この地点から考える』を読みました。昨日、書店にて、本の帯に宮台真司さんの名前を見つけて 、お~。さらに大澤真幸さんの名前も見つけて、お~。宮台ファンにはたまりません。宮台さんの『宮台教授の就活原論』に、大澤さんとの次のようなエピソードが載っています。

 

でも一年先輩の大澤真幸氏と図書館のソファーで「一生を塾や予備校の講師で送るんでも別にいいよね」としばしば語り合いました。そこで固まった価値観が大きい。

 

 前後の文脈は省略しますが、格好良すぎます。そのしばしば語り合った内容を知りたい。江戸川乱歩の人間椅子よろしくそのソファーになりたい。変態か。社会学ではなく文学でいえば、若き村上龍さんと若き村上春樹さんが語り合ったという、絶版本『ウォーク・ドント・ラン』みたいな一冊がほしい。

 

 終わりなき終わりの時代を生きるためにも。

 

www.countryteacher.tokyo

 

 だから、われわれは終わりなき終わりの時代を生きることになる。こう主張するとき私は、宮台真司が四半世紀前の地下鉄サリン事件の後、オウム真理教の信者とそのシンパに対して言ったスローガン、「終わりなき日常を生きろ」が念頭にある。オウム信者は、終わりの幻想に魅了されていた。それに対して、宮台は、華々しい終わりなどはやってこない、終わりなき日常を生きるべきだ、と説いたのだった。

 

 大澤真幸さんが同書の中に書いている「もうひとつの別の経済へ」より。「新しい日常」というのはすなわち「終わりなき終わりの時代を生きる」ことを意味しているのかもしれない。しかしこれは希望の前の絶望と考えたい。どういうことか。コロナ後の世界は選択を迫られる。経済をとるか、健康をとるか。まるでウィリアム・スタイロンの小説『ソフィーの選択』のように。ナチスの将校から「どちらかの子を選べ」と告げられた二児の母親ソフィーのように。ソフィーは選択し、後悔し、そして自殺というかたちで人生を閉じるが、私たちはソフィーではない。だから「健康」も「経済」も、とる。ただしその場合、両方とるという選択を通して《経済は別の経済へと変わる》。ベーシックインカム(基礎所得保障)が指向するような、もうひとつの別の経済へ。大澤さんが書いているのは、そういった話。

 

 格好いい。

 

 冒頭の引用は宮台さんの「2020年のパンデミックと『倫理』のコア」からとったもの。屋上の話、非常階段の話、そして地べたの話、どれも宮台さんの十八番です。

 

 梯子を昇る。
 屋上に出る。
 そこで仲間とだべる。
  

 通っていた高校にちょっとした屋上がありました。授業を抜け出し、そこに昇って感じていた空気は、バックパックを背負ってインドやらネパールやらインドシナ半島やらをフラフラとしていたときに感じていた空気とよく似ていたように思います。それらはきっとどちらも「社会の外」だったのだろうなぁ。宮台さん曰く《コロナ自粛要請で空っぽになった夜の渋谷の街》もそんな感じだった、云々。なんとなくわかります。そしてその「社会の外」に出る扉が、宮台さんがいうには1980年代から急速に失われていったとのこと。

 

 その結果。

 

 日本の子供経済格差は先進41ヵ国中ワースト10。男性育休取得率は先進国はノルウェー9割から米国2割の間に分布するのに日本は3%。日本青少年研究所の2014年の高校生調査では「どんなことをしても親を世話したい」割合は中国88%、米国52%、日本38%。同じく2011年調査では「自分を価値のある人間だと思う」とする割合は米国57%、中国42%、日本8%。その他、《経済も政治も家族も空洞化する中で、頼みの自分にも自信がないのだ》と宮台さんが喝破する悲惨な社会指標が、多。なぜこんなことになっているのか。原因のひとつは、コミューナリティー(共同性・仲間性)が失われてしまったことにある。

 

 コロナは、この流れを推し進める。

 

 コロナ禍によるテック化は、現在の流れを見る限り、コミューナリティーを支える共通感覚・を育む共同身体性・を育む身体的にトゥギャザーである機会を、子供たちから奪う。この流れは汎システム化が進んだ1980年代から顕在化し、インターネットが普及した90年代から加速してきた。それをコロナ禍が急加速化した。ただしそれには良い面もある。

 

 良い面とは、茹で蛙になる前に《この原稿を読む機会が読者に与えられた》とのこと。だからこのブログで紹介しました。

 宮台さんと大澤さんの他にも、小野昌弘さん(免疫学)、斉藤環さん(精神医学)、松尾匡さん(経済学)、中島岳志さん(政治思想)、宇野重規さん(政治哲学)、鈴木晃仁さん(医学史)、神里達博さん(科学史)、小泉義之さん(哲学・現代思想)、柴田悠さん(社会学)、そして中島隆博さん(哲学)と、論客がずらり。斉藤環さんの「キリスト教の原罪」と「コロナ」が似ているという話、すなわち「自分には罪があるという前提で考え、ふるまう」≒「あなた自身がすでに感染している前提で考え、ふるまう」という話も興味深かったなぁ。

 

 これ、めちゃくちゃいいから読みなよ。

 

 ぜひ。

 

 

宮台教授の就活原論

宮台教授の就活原論

  • 作者:宮台真司
  • 発売日: 2011/09/17
  • メディア: 単行本