人間力というのはどんな権威あるブランドや金よりも、人を魅了し生き方を変える力を持っている。
例えばこの本の編集者である澤田氏も、寺脇氏に「説得」された一人だ。高校時代、学校や授業のあり方に大きな疑問を抱き、上京して単身、文部省に乗り込み、「担当者に会わせろ」と息巻いた少年。彼は担当者として出てきた寺脇氏の熱い教育論や、彼の人間臭い兄貴分ぶりにガツンときて、「将来はこの人の本を出すために編集者になろう」と決意した。
そして中卒という肩書で扶桑社に入り、念願どおり、こうして寺脇氏の本を担当するに至った。なんだかできすぎていてウソっぽいが、脚色ゼロの実話である。
(寺脇研『それでも、ゆとり教育は間違っていない』扶桑社、2007)
こんにちは。上記の澤田氏の振る舞いから学べることは、疑問が行動につながると風景が変わるということ。逆にいえば、行動につながらない疑問が風景を変えることはありません。風景が変われば自分も変わる。自分が変われば世界も変わる。
寺脇さんってどんな人だろう。
数年前に、寺脇研さんが学長を務めるカタリバ大学の講座に参加しました。寺脇さんは総合的な学習の時間やゆとり教育のスポークスマン(旗振り役)としてメディアを賑わせた、旧文部省の元官僚です。上記の著書で解説(引用部)を書いているジャーナリストの速水由紀子さんによれば、長いものに巻かれがちな多くの大人とは正反対の生き方をしている、曰く「楽しいオッサン」とのこと。映画評論家という別の顔ももっていた寺脇さんは、「(食いぶちが2つあるから)正しいと思うことをやって文部省から排除されても構わない」というスタンスで、ゆとり教育の柱となる総合的な学習の時間の導入など、「学校を変える」という大事業をやってのけます。
幸福度世界一のデンマークから学ぶ、しあわせな暮らしと教育。
その日の講座のテーマです。慶應大学の学生2名とリクルートの社員1名が、デンマークで視察してきたことを小一時間ほどプレゼンし、その後、プレゼンターも寺脇さんも参観者も一緒になって、4つの円を作って地べたに座り、それぞれ7、8人で語り合いました。
プレゼンでは、テストも通信表もなく、とにかくデンマークの学校はゆったりとしているという話が印象に残りました。また、車座になってからの語らいでは、わたしの隣に座っていた中学1年生の女の子が「テストをしないのにどうやって子どもの力がわかるのですか?」や「デンマークの学校もよさそうだけど、わたしは日本の学校が楽しいから、どちらの国にもそれぞれいいところがあると思います」と大人に臆することなく疑問や意見を述べていたことが印象に残りました。寺脇さんが総合的な学習の時間やゆとり教育を通して育てたかった子どものイメージは、こういう子のことなのだろうなぁ、と。
こういう子 = 受け身ではなく、参加し、場に貢献できる子。
最近でいうと、環境活動家のグレタ・トゥーンベリさんをイメージすれば、当たらずとも遠からずでしょうか。だから「それでも、ゆとり教育は間違っていない」という意見にわたしも賛成です。しあわせな暮らしも、しあわせな教育も、市民の参加がなければ画竜点睛を欠くからです。スウェーデンやデンマーク、スイスやオランダなどの、いわゆる「幸福度が高い」とされる国々の教育が、いずれも総合やゆとり、そして参加の要素を色濃くもち合わせているということも「だから」や「それでも」の一因です。
忘年会スルーとか、
年賀状スルーとか。
現代人の忙しさや労働環境にその背景をもつであろう最近のそういったトレンドが、共同体スルーにつながらなければよいなぁ。共同体に関心のない人が増えれば増えるほど、すなわち共同体を維持するためのコストを支払わずに、共同体からのベネフィットだけを得ようとする人が増えれば増えるほど、しあわせな暮らしも、しあわせな教育も、遠ざかっていくと思うからです。楽しいオッサンだっていなくなってしまいます。
昨夜は忘年会でした。
勤務校には行動力のある気持ちのよい若者がたくさんいて、彼ら彼女らを見ていると、確かに「それでも、ゆとり教育は間違っていない」という気分になります。そんな気持ちのよい若者たちが、これから子育て世代となったときに、勤務時間がさらに延びそうなゆとりゼロの未来の教育現場で、引き続きその気持ちのよさを保ったまま働き続けられるのかどうか。そう考えると本当に必要なのは、忘年会スルーでも年賀状スルーでもなく、通知表スルーとかテストスルーとか指導案スルーとか、中学校だったら部活動スルーとか、そういった類いの、ゆとりをつくるためのスルーのような気がします。パラフレーズすると、学校を元気づけるための「サビ残」スルー。あっ、何だかよい響きだ。ヒット曲のタイトルみたい。
サビザンスルー。
歌います。