田舎教師ときどき都会教師

テーマは「初等教育、読書、映画、旅行」

松井博 著『僕がアップルで学んだこと』より。神戸の4教員のいじめの記事と松井博さんの新刊&旧刊を読んで考えたこと。

 私がアップルに入社していちばん驚いたこと、それはいろいろな意味で突出した人材の多さでした。まず頭のいい人の数。「人生の中でこんなに頭のいいヤツには会ったことがない」と思わせてくれる人々にしばしば遭遇します。特にどうってことのないポジションの普通の社員も優秀なのです。頭が悪いと感じる人に会うことはめったにありません。
(松井博『僕がアップルで学んだこと』アスキー新書、2012)

 

 ベトナムの古都フエにて。日本語教師として当地の大学で活躍している友人と、友人の教え子らとともに、バイクに乗って、近くの海へ。教え子といっても、昼は働き夜に学ぶ、同い年ぐらいの苦学生ばかり。12年前の夏の話です。

 

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友人の勤め先から、ビーチへ(07)

 

 ビーチに行くまでの道中も、そして帰りも、学生さんのバイクの後ろに乗っけてもらって、楽しかったなぁ。特に帰りの星空は最高でした。ノーヘルだったし、酔っ払っていたし。風も心も、ストレスフリー。

 

 もちろんビーチでの饗宴も、最高に楽しかった🎵

 

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日本語談義、ベトナムの学生さんたちと🎵

 

 日本語を学ぶベトナムの学生さんたちとのビーチでの饗宴。食べて食べて、と妙なイントネーションの日本語が溢れる中、皆一様に「日本語は難しい」と話していたことを覚えています。「助詞は特に」云々。

 

 例えば「は」と「が」。

 

 ① おじいさんは山へ柴刈りに~。
 ② おじいさんが山へ柴刈りに~。

 

 ①も②もOK。でも、①と②の前に「昔々、あるところにおじいさんとおばあさんがいました」があると、②はNGになります。日本語ネイティブには当然の感覚。しかしベトナムの学生さんたちにとっては「柴刈り」と「芝刈り」の違いのほうがまだわかりやすいようで、たしかにそうかもしれないなぁ~。

 ちなみにこの場合の「が」は、聞き手に新しい情報を伝える「が」で、私がいまここで勝手に命名するところの「初見の《が》」です。一方で「は」は、例えば「ぼくの両親は、桃太郎ってやつに殺されました」というように、誰もがすでに知っている情報を伝えるときに使われる「は」です。想像力を駆使すれば、誰もが知り得る「鬼ヶ島の子鬼」の嘆き。

 

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古都フエの夜景

 初見の「が」。
 所見の「が」。

 

 今日、19時を過ぎたくらいに、2期制(前期、後期)の小学校で働く友人から「所見」についての嘆きメールが来ました。来週末に前期の終業式を控え、華の金曜日(死語?)なのに通知表の「所見」の点検に追われているとのこと。定時が過ぎても、チーム学校(死語?)で必死にがんばる訂正作業。その内容はといえば……。

 

 「友達」VS「友だち」
 「丁寧」VS「ていねい」
 「一つ一つ」VS「一つひとつ」

 

 誤字や助詞のレベルならまだしも、こういった「どうでもいい」としか思えない「漢字 VS 平仮名」レベルの表記ヒトツヒトツに神経をとがらせ、時間を割いて必死に統一しようとする学校。いったい誰得の仕事なのでしょうか。友人曰く「担任に任せてほしい」。松井博さんの新刊のタイトル『なぜ僕らは、こんな働き方を止められないのか』(KADOKAWA、2019)を彷彿とさせる、友人の嘆きです。

 

 僕はこの社員を信用しない日本の企業文化が、平成になって日本企業が衰退してしまった原因の一つではないかと考えています。
(松井博『なぜ僕らは、こんな働き方を止められないのか』KADOKAWA、2019)

 

 私はこの教員を信用しない日本の学校文化が、平成になって公立学校の労働環境が悪化してしまった原因の一つではないかと考えています。所見の表記の統一とか、スタンダードの導入とか、そうやって教員の自主性をたたきつぶした結果、労働環境が悪化し、採用試験の倍率の低下につながりました。教員の不人気化が進むにつれて「人生の中でこんなに頭の〇〇ヤツには会ったことがない」と思わせてくれる「先生」にもしばしば遭遇するようになりました。今日、ニュースで流れていた「激辛カレーいじめの4教員」もおそらくはそういった類いの「先生」なのではないかと思います。それにしても、職員間でのいじめだなんて、いろいろな意味で突出した人材が多そうだなぁ、神戸。

 

 過労スパイラル。

 

 要するに、激辛カレー教員が構造的に生み出されていく辛い現状では、頭が〇〇と感じる人に会うことは止められず、「丁寧」を「ていねい」に、或いは「ていねい」を「丁寧」に書き直すことも含めて、通知表の所見に膨大な時間を割くような働き方も、私たちは止められそうにありません。本当に大事なのは、

 

 労働環境を整えること、なのに。

 

 ていねいに。
 丁寧に。

 

 訴え続けていきたいものです。