娘が中学生になった。小学生の娘はもういない。
凡庸な表現になるが、娘の誕生からここまで、ほんとうにあっというまだった。あっというまだとは聞いていたが、予想以上に短かった。娘が生まれてすでに12年が過ぎた。あと12年すれば24歳で、そのころ娘がどうなっているか想像もつかない。結婚しているかもしれないし、国外に出ているかもしれない。娘と同居できる時間は早くも残り少ない。
それにしても、なぜこんなに早く感じるのか。ぼくの考えでは、答えは「取り返しのつかなさ」にある。(東浩紀『ゆるく考える』河出書房新社、2019)
こんばんは。おそらくは「ゆるく考える」というわけにはいかなかったのでしょう。先日、国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」の企画アドバイザーを務めていた東浩紀さんが辞意を表明しました。
騒動となっている「表現の不自由展」について、ニュースで流れている以上のことはわかりませんが、「パパ、ちゃんと寝てるのかなぁ」なんて、中学生の娘さんが心配しているのではないかと、同じ年頃の娘をもつパパとしては想像してしまいます。家族とゆるく過ごすことのできる、せっかくの、それこそ取り返しのつかない夏休みなのに。ちなみに「あいちトリエンナーレ2019」のテーマは「情の時代」だそうです。感情の「情」、或いは情報の「情」。
東さん、おつかれさまでした。
辞意の表明を受けて、小説家の高橋源一郎さんが Twitter でそうつぶやいていました。情け容赦ないコメントが飛び交う中、情があって、テーマにも即していて、さすがの想像力だなぁと思います。そういふものにわたしはなりたい。
情といえば、2年前。代官山の蔦谷書店で開催された『ゲンロン0 観光客の哲学』の出版記念イベント(東さんと宮台真司さんとの対談)に参加したときに、東さんが「両親と一緒に食事をするのも、最近は年に1、2回しかないから、あと10年くらい両親が生きていてくれたとしても、もう数えるほどにしか家族団欒の機会がない。子どものときは毎日一緒に食べていたのに」と、情感というか、切迫感のようなものを込めて話していたことを覚えています。
娘と同居できる時間も、
親と食事できる回数も、
早くも残り少ない。
十二歳の娘はこの春にしか存在せず、中学の入学式もいちどしか出席できない。あらゆる瞬間が唯一のもので、取り返しがつかないというこの切迫感こそが、育児のめまぐるしさの原因であり、「あっというま」の感覚の源なのではないかとぼくは考えている。その切迫感をうまく処理できないと、育児ノイローゼを病んでしまうのだろう。
だからこそ、小学校の教員も、中学校の教員も、田舎教師も都会教師も、もちろんその他大勢の大人も、過労死レベルなんかで働いている場合ではないなぁ、と強く思います。
中原淳さんとパーソル総合研究所による『残業学』によれば、通勤時間の長い、特に都心部で過ごす人たちは、睡眠や食事以外の家事の時間や家族とリラックスして過ごす時間が《国際的な水準から見て3割以上少なくなります》とのこと。3割ですよ、3割。しかも3割「以上」。実際、過労死レベルで働いていたりすると、平日に家族とゆったり過ごす時間はほぼとれませんからね。ひどい話です。繰り返しますが、娘と同居できる時間も、親と食事できる回数も、早くも残り少ないっていうのに。
今日は遠方から実家の両親と姉夫婦がやって来て、ゆるく食事を楽しみました。長女も次女も大はしゃぎ。食卓には、かつての教え子ファミリー(漁師さん)から届いた大きな鯖が、ドーン。鯖の包装には「贅を楽しむ」とあります。取り返しのつかない今を大切にすること。ゆるく考え、贅を楽しむ。そんな働き方と生き方を次世代に。
できれば自世代にも。
おやすみなさい。