田舎教師ときどき都会教師

テーマは「初等教育、読書、映画、旅行」

安部公房 著『箱男』より。海の命と私たちの命。

ところが、眠り込んじゃった。工事用のローラーで敷きつぶされたみたいに、べったりと眠ってしまったんだ。おまけに、夢の見つづけで、夢の中では一睡も出来なかったから、さっきまで寝つづけてしまったのに、まだ睡眠不足なのさ。
(安部公房『箱男』新潮文庫、1982)

 

 こんにちは。先週、先々週と、月曜日休みの「火~金」出勤が続いたので、今週の「月~金」出勤は身体に堪えました。ただただ、眠い。おかげで今朝は9時までぐっすり。それでも睡眠不足の感が拭えないのは、変形労働時間制の悪夢にうなされ、箱男が言うように、夢の中で一睡もできなかったからかもしれません。変形労働時間制よりも、午睡(シエスタ)の制度を新たにつくってくれたほうが、よほど嬉しい。かつて旅先で見かけた次のような光景が「望ましい人生」として思い起こされるのも、睡眠不足のせいに違いありません。

 

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ハノイにて。眠くなったら、商品の上でも、寝る(07)

 

 パートナーが産休&育休をとっていたときに、毎日お便り(学級通信)を出していたことがあります。睡眠時間を削って作っていたので、あの頃は授業中にもかかわらずよく教室でウトウトとしていました。午睡というか、単なる職務専念義務違反というか。担任が眠っていても回るクラス、と考えれば、それはそれでひとつの「達成」のような気もしますが。

 当時は都会教師で、6年生の担任をしていました。学級通信のタイトルは「“Do”-oriented」。行動重視という意味で、コンピューター産業の育ての親であるゴードン・ベルの言葉を引いたものです。最高学年のチームづくりは、マネジメント重視ではなく、行動重視だ(!)。今考えると、若さが先走ってちょっと意味不明ですが、まっ、いいや。

 

 内容はというと、こんな感じ。若い漁師の「成長」を描いた、立松和平さんの『海の命』の授業(国語)について書いた133号と134号。懐かしいなぁ。

 

 

08年12月15日(月)「“Do”-oriented 」133号

 

 宮城県の亘理町に「あら浜」という当地ではよく知られたお店があります。郷土料理であるはらこ飯が有名で、学生時代、遠方から友達が遊びに来たときには、ときどきそのお店に連れて行っていました。

 

 珍しい魚が獲れたけど、どう?

 

 店員に勧められるままに注文したあら汁。中に入っていたのは「クエ」でした。「おとう、ここにおられたのですか」なんて話しかけることもなく、ムシャムシャと食べてしまったのですが、値段が高かったことと淡白な味だったことをよく覚えています。

 

 クエは珍しい魚。
 クエは高級な魚。

 

 現実という文脈に即して言えば、一家の主である漁師がクエを獲ろうとするのは当然のことです。おとうは現実的であり、太一は物語的である。立松和平さんの『海の命』はそのようにも読めます。さて、国語の研究授業。クライマックスの第5場面。太一はなぜクエをうたなかったのか。

 

 この国では、何千年もの間、人は死んで、故郷の山川草木の下へ戻るものと考えられてきた。生まれた土地の神になって、家族や土地の人々を守るようになると思われた。「八百万の神々」という言い方は伊達ではないのである。
(高橋源一郎『おじさんは白馬に乗って』講談社、2008)

 

 アニミズム的な世界観。

 

 太一はクエに父の姿を、そして海の命を見た。だからクエをうたなかった。子どもたちはそんなふうに結論付けました。ではなぜ、クエを海の命と思えたのか。授業を参観していた指導主事の〇〇先生から、授業後の検討会のときにそんな「問い」を投げかけられました。

 

 なぜクエを海の命と思えたのか。

 

 なぜでしょうか。今日の国語の授業が楽しみです🎵

 

 

08年12月16日(火)「“Do”-oriented 」134号

 

 引き続き国語。なぜクエを海の命と思えたのか。授業では、クエの目の色を手がかりとして、その「なぜ」を考えていきました。

 

 第1場面に登場するクエの目は「光る緑色」。
 第5場面に登場するクエの目は「青い宝石」。

 

 作者である立松和平さんが何の意味もなくクエの目の色を変化させたとは考えられません。そこには何らかの意味が隠されているはずです。さて、どのような意味でしょうか

 

 書き手が単語によってあらわしている意味を読み手が正しく了解してはじめて、書き手と読み手は一つの思想を共有する。二つの精神が思想を通して出会うという奇蹟が起こる。
(M.J.アドラー、C.V.ドーレン『本を読む本』講談社学術文庫、1997)

 

 第3場面で「海に帰りましたか」と表現されているおとうと与吉じいさ。海に帰っていったおとうの魂がクエに憑依していたからこそ、クエの目の色が変化していたのではないか。子どもたちの多くが、そのように読み取りました。

 

 だから、太一はクエを海の命と思えた。

 

 ここがまた難しいところです。「クエ=おとう」に「=海の命」をつなげるためには、どのような説明が必要なのか。

 

 子どもたち「う~ん」。

 

 父の魂を宿した大魚に対して、太一はある種の神秘性のようなものを体感した。その神秘性が瀬の主であるクエを「海の命(生命の根源)」としてシンボライズすることになった。一つの読みとしては、そんなところでしょうか。

 

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亘理にて(06)

 

 国語の単元ひとつとっても考えなければいけないことがたくさんあるのに、それ以外にも教科が複数あって、子どもも40人近くいて……、そりゃあ睡眠不足になりますよ、小学校の教員は。独身のときならまだいい(本当はよくない)。でも結婚して子育てが始まったら、もう無理ゲーです。

 

 世界は永遠に続く土曜日の夜の始まりのようなやさしさに満ちている。

 

『箱男』にそんな素敵な文章があります。為政者には、変形労働時間制ではなく、もっとやさしさに満ちた制度を期待したいものです。

 

 海の命にも。
 私たちの命にも。

 

 もっとやさしさに満ちた行動を。

 

 

箱男 (新潮文庫)

箱男 (新潮文庫)

 
おじさんは白馬に乗って

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