残された学生時代の詩や作文、官僚時代の福祉についての論文を一つひとつ繙くと、行政側に立ったひとりの良心的な人間が福祉切り捨ての時代のなかで自己崩壊していく過程が感じられました。このように、取材で発見したものを構成に組み込むことで、番組はより複雑な現実に対峙できる強度を持つ、ということを僕はこのとき身をもって実感しました。
それは、自分の先入観が目の前の現実によって崩される、という快感でもあったのです。
(是枝裕和『映画を撮りながら考えたこと』ミシマ社、2016)
こんばんは。やや都会寄りの田舎にある小学校で働いていたときの同僚に、もとそろばん日本一という異色の経歴をもった先生がいました。10487✕38535なんて問題にも即答できてしまう、ハイスペック(?)な新卒の女の子です。日本一だった頃は、休日になると10時間以上も計算を続けていたそうで、「そんなにハイスペなのに、なぜ教員に?」という「?」も含めて、ほんと、驚きの「異端なスター」でした。しかも、かわいい。
計算力と集中力。
彼女が言うには、そろばんで培ったいちばんの力は計算力と集中力とのこと。教員の仕事がスタートしてからというもの、計算力はあまり使い道がなかったようでしたが、集中力については使い道がたくさんあったようで、とにかく仕事がスピーディーかつ正確で、びっくり。仕事も計算も同じなのか、オーダーがあればすぐに処理というスタイルで、仕事も机の上もいつもきれいに片付いていました。ベテランだって仕事に追われるのに、いわんや初任をや。そんな先入観が目の前の現実によって崩される、という快感を味わうことができた数年間だったように思います。
もとそろばん日本一で、テレビにも出演したことがあるという、ハイスペックな彼女でしたが、10年くらい前に結婚し、教職を去ります。日本一の集中力をもってしても、初任以降、増え続けていく仕事には、教職を続けるという選択肢を断念せざるを得ない複雑な現実があったようで、周囲の「もったいない」という声をよそに、それこそZOZOTOWNの前澤友作さんに負けないくらいの潔さでスパッと辞めてしまいました。異端なスターにそっぽを向かれてしまう教育現場。
それが現実。
とはいえ、そういった実験的なことができたのは、番組の管理の仕方がいまとはまったく違っていたからかもしれません。当時は録画ができないから放送して終わってしまえば問題にしようがなかった。1960年代はドラマすら生放送の時代でしたから。
それから十年経たないうちにテレビは保守化の一途を辿ります。その状況を憂いた村木良彦は「テレビは異端を必要としている」と明快に言い、自らが主流ではなく異端であることを認識しながらテレビの保守化に抗っていきました。
教育現場は異端を必要としている。
でも、これだけ学校現場が大変だと、まともな異端は応募してきません。まともな異端というのは、そろばん日本一だった彼女のような先生です。或いは是枝裕和さんのように《実は当時、僕はテレビマンユニオンに出社拒否をしていて、自宅で悶々としていたときにこの脚本を書き上げました》というようなタイプの先生です。
教員は給料の出ないサービス残業を法的に決めた日本で唯一の仕事といわれています。この奴隷制のようなシステムを考えれば、例えば部活動の顧問を拒否するような先生がもっともっと出てきてもいい。大変な学校現場を内側からなんとかしようという先生や管理職がもっともっと出てきてもいい。アホらしいと思って見限る先生がもっともっと出てきてもいい。
そうしないと大変さは変わりません。
9月11日の新文科相の発言「学校現場が大変だという先入観を持たれてしまっている一面がある」というコメントに、現場からの批判がチラホラと聞こえてきます。学校の働き方改革については「その推進に意欲」という記事が出ていたので、期待したいところですが、やはり「先入観」という言葉は気になります。だって、学校現場が大変なのは、先入観などではなく、圧倒的な事実であり現実ですから。
日本一の先生も続けられませんから。
パートナーだって休職しましたから。
教員になりたいっていう人がたくさんいる社会。そんなにハイスペ「なのに」なぜ教員に(?)ではなく、そんなにハイスペ「だから」教員に、っていう社会。そういった理想的な社会の実現を、働き方改革を進めることで少しでもかたちにしていってほしいなぁと、新しいリーダーに期待したいところです。是枝監督が映画を撮りながら考え、味わったという、「先入観」が目の前の現実によって崩される、という未来への期待とともに。
以上、新文科相の就任会見の記事を読みながら考えたこと。
おやすみなさい。