田舎教師ときどき都会教師

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國分功一郎 著『中動態の世界』より。過労死という言葉を必要としない未来を、意志する!

 ある単語の不在は、出発点ではなくて結果である。 たとえば、「オオカミ」という単語をもたない言語があるとすれば、それはその言語の使い手たちが、オオカミを特別に認識する必要をもたなかったからに過ぎない。認識の必要だけでなく、さまざまな事例ごとにさまざまな事情があるだろう。それは個別に検討してみなければ分からないことである。
 思考する主体は常に何らかの現実のなかにいる。だから言語が思考を直接に規定するということは考えられない。言い換えれば、言語の規定作用を、思考という規定されるものへと直接に差し向けることはできない。
(國分功一郎『中動態の世界』医学書院、2017) 

 

 こんばんは。2000年◇月△日。ネパールの首都カトマンズでひどい食中毒にかかり、三日三晩のたうちまわりました。おそらくは水が原因です。しんどかったなぁ。その後、バスを乗り継ぎ、這うようにして帰国便の待つインドの首都デリーへ。道中の景色は何も覚えていません。で、飲まず食わずのままようやくたどり着いたエアポートホテルで、バナナなら食べられるかもしれないって、そう思ったんです。だからその旨を消え入るような声でスタッフに頼んだところ、ベッドサイドに運ばれてきたのは……。 

 

 バターナン!

 

 バナーナとバターナン、確かに似ているかもしれません。その後の記憶はなく、銀色のプレートに載ったギトギトしたバターナンとターバンを巻いたおじさんの笑顔だけが今でもベットリと脳裏に焼き付いています。

 

 No!

 

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世界遺産スワヤンブナートから望むカトマンズ(00年)

 

 のたうったりって、どういう意味ですか?

 

 昨日、クラスの子(4年生)にそう聞かれました。国語の授業のときに『ぼくは川』という阪田寛夫さんの詩を読み、感じたことを互いにシェアしていたときの話です。そうか、のたうったことがないのか。

 

 ぼくは川

 真っ赤な月にのたうったり

 砂漠のなかに乾いたり

 

 詩を朗読した後に、フランツ・カフカの短篇『橋』の冒頭の一節「ぼくは橋だった」を思い出して、思わず子どもたちに紹介してしまったという話はさておき、解釈の多様性を味わうという目的でその『橋』を題材に国語の教員研修を行ったときに、教務主任が「橋が名字で、だったが名前かもしれない」とちょっとおもしろいことを言っていたことを思い出してしまったという話もさておき、阪田寛夫さんの『ぼくは川』は、フランツ・カフカに負けず劣らず、ちょっと陰があって、4年生には「背伸び」のし甲斐がある教材だなぁと思います。

 

 辞書で調べましょう。

 

 子どもにはいつものようにそう言って返しました。すぐに教えてしまうと、子どもは考えるのをやめてしまいますからね。ネパールでのたうち回った話をしようかとも思いましたが、フランツ・カフカの『橋』の話ですでにかなり脱線してしまっていたため、それは断念。それにしても、過労死レベルの労働に日々のたうっている我々からしてみれば、のたうった経験がないっていうのは、それはそれでしあわせなことなのかもしれません。國分さんの本に書かれていたことを思い出しつつ、そう感じました。

 

ある単語の不在は、出発点ではなくて結果である。 

 

 表現が格好良すぎます。ちなみに過労死は「karoshi」として世界に向けて出発し、今では例えばオックスフォード英語辞典に「''death brought on by overwork or job-related exhaustion'' - a reflection of the strains imposed by Japan's strong work ethic.」と掲載されるくらいまでに認知されています。tsunami は仕方がないとしても、karoshi なんて全力で不在にすべき単語なのに。

 

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カトマンズ郊外にあるボダナート(仏塔)にて。

  

 夏休み明けの今週、相当にハードで、毎日のたうっていました。夏休みと2学期とでは、日本とネパールの水質の違いくらいにギャップがあります。心も体も変化についていくことができません。過労死っていう言葉も、過労死レベルっていう言葉も、特別に認識する必要のない日はやってくるのでしょうか。

 

 それもまた私たち大人の意志と責任にかかっている。

 

 子どもたちのために残業するのではなく、将来子どもたちが「過労死」なんて言葉を特別に認識しなくても済むよう、残業しないことを「意志」する。行事や会議を精選して、残業をしなくてもよいシステムをつくることを「意志」する。当たり前のように定時前に仕事が終えて、法律で定められた休憩時間もとることを「意志」する。それぞれ責任をもって「意志」する。とはいえ、意志って難しいんです。曖昧なんです。

 

能動は意志を強調する形式であり、受動はそれをひっくり返したものに過ぎない。そして意志は実は曖昧さを抱えた概念であり、実際、最新の脳神経科学は行為の原動力としてのその役割を否定しつつある。
 ならば、そのような曖昧なものの存在を信じているがゆえに、能動/受動という曖昧な区別を利用する羽目になっているとは言えないか? 能動/受動の区別の曖昧さとは、要するに、意志の概念の曖昧さなのではないか?

 

 バナーナなのかバターナンなのか。能動なのか受動なのか。それとも中道なのか。國分功一郎さんの『中動態の世界』を読むと、過労死という言葉の意味合いも変わってきます。どう変わってくるのかというと……。

 

 難しい本です。

 

 でも、意志をもって、ぜひ一読を。