田舎教師ときどき都会教師

テーマは「初等教育、読書、映画、旅行」

井上義和・牧野智和 編集、中野民夫、中原淳、他『ファシリテーションとは何か』より。絶望が問いを生み、問いがファシリテーションを要請する。

 でも、世の中には口のわるい人もいますね。「だから、黙って、会社の世界にいろ」とか「学校の教育の素人のくせに、戻ってくるな」と言われたりするのです(笑)。けれども、本当に会社の世界を極めていくと、それ以前の世界がみえてきます。そして「学校教育と会社世界を一気通貫に考えたくなります」。これは、絶対にそう思う。企業の人事部や経営企画で仕事をしているひとのなかで、本当に心あるひと、志あるひとは、学校教育をみています。今後は、教育現場のひとびとと、そういう「市井の心あるひとびと」が出会う場を創りたいですね。
(井上義和・牧野智和 編集、中野民夫、中原淳、中村和彦、田村哲樹、小針誠、元濱奈穂子『ファシリテーションとは何か』ナカニシヤ出版、2021)

 

 こんばんは。この感染状況です。少しでも具合の悪い子がいたら、学校は最悪の場合を想定して、その子を帰さざるを得ません。すぐにご家庭に連絡します。でも、世の中には口のわるい人もいますね。「だから、下校時刻まで、保健室にいさせろ」とか「学校の教育のプロのくせに、仕事を放棄するな」と言われたりするのです(悲)。台詞は「仮」とはいえ、マイナスの感情をぶつけられるケースがあるのは確かで、新型コロナに感染したかと見紛うばかりに私たち職員の具合が悪くなります。だから、これは中原淳さんの言葉ですが、《本当に心あるひと、志あるひとは、学校教育をみています》なんて言われると、中原さんのファンじゃなくても心震えます。

 

 いわんやファンをや。

 

 

 中野民夫さんや中原淳さんらが執筆陣に名を連ねる『ファシリテーションとは何か コミュニケーション幻想を超えて』を読みました。ファシリテーションはどこから来たのか、ファシリテーションとは何なのか、ファシリテーションはどこへ行くのかがわかる一冊です。巷にあふれるノウハウ本や解説書の類いではありません。ファシリテーション万歳という本でもありません。「はじめに」を書いている帝京大学共通教育センター教授の井上義和さん曰く、

 

 私たちの関心は、むしろ、そうした解説書がさまざまな現場で求められる社会の方にある。

 

 なぜ社会はファシリテーションを必要としているのか。

 

 以下、目次です。

 

 第Ⅰ部 ファシリテーションの時代はいつ始まったのか。
  01 もう一つの道を求めるなかで(中野民夫)
  02 さまざまな分野へのファシリテーションの展開(中野民夫)
  03「野生の学び」としてのワークショップ(中原淳)
 第Ⅱ部 ファシリテーションを歴史と社会のなかに位置づける
  04 ワークショップ/ファシリテーションはどのように注目されてきたのか(牧野智和)
  05 ファシリテーション概念の整理および歴史的変遷と今後の課題(中村和彦)
  06 熟議民主主義におけるファシリテーション(田村哲樹)
 第Ⅲ部 ファシリテーションを相対化し、実践と向き合う
  07 国策アクティブ・ラーニングの何が問題か(小針誠 ✕ 井上義和)
  08 反省性を統治する(牧野智和)

 

 第Ⅰ部は中野民夫さん(1957-)と中原淳さん(1975-)のライフヒストリーです。バックパッカーだった中野さんのそれはもうひとつの『深夜特急』のようで、旅好きにはたまりません。見田宗介さん、蓮實重彦さん、宮台真司さん、苅谷剛彦さん、志水宏吉さん、佐伯胖さん、佐藤学さん、秋田喜代美さん、上田信行さん、金井嘉宏さん、等々、ビッグネームが次々と登場する中原さんのそれは社会科の授業でいうところの英雄史観のようで、本好き、そして人好きにはたまりません。それぞれ、単純に読み物としておもしろい。

 

 結局、人。やっぱり、生き方。

 

中野民夫さんのインタビュー(👉本書6頁)を読んで笑ってしまったのは、中野さんも入学直後に、東大の教育環境に、絶望しているんですね。今、ワークショップなんかをやっている人は、たいてい大学教育に絶望した経験のある人ではないでしょうか。だからこそ、オルタナティブの学びの場であるワークショップを探究している。

 

 Why?(なぜ)こんな授業がデフォルトなのだろう。

 

 絶望から出発した二人が、絶望を問いに変え、オルタナティブの学びの場であるワークショップを探究&その先頭集団を走り続けることで00年代に花開くファシリテーションの時代を準備することになったというわけです。二人はいわば生き証人。読書意欲を「促進する」という意味でも、この本のトップに「生き証人」のライフヒストリーをもってきた編者2人(井上義和さんと牧野智和さん)は、見事なファシリテーターといえるのではないでしょうか。ちなみに井上さんは「はじめに」のところでファシリテーションを次のように定義しています。

 

 人びとが集まって、やり取りをしながら共同で何かを行うときに、コミュニケーションの場を保持し、そのプロセスに働きかける取り組み・仕組み・仕掛け

 

 早くから中野さんや中原さんの影響を受けていたからでしょうか。私には、どこからどう見ても「学級担任」の定義としか思えません。文中の《何か》に当たるのが授業です。授業を行いながら、コミュニケーションの場を保持し、子どもたちの関係づくり、すなわち学級づくりをしていく。まさに「学級担任」です。では、ファシリテーターとしての学級担任が何を促進しているのかといえば、それは以下の3つ。

 

 タスク(課題解決/合意形成)
 ラーニング(体験/学習)
 リレーション(関係性)

 

 第Ⅱ部において、中村和彦さんが「促進する目的の3分類」としてベン図で示した項目です。「ラーニング」が授業づくり、「リレーション」が学級づくりに相当します。学級担任としてのウィークポイントは「タスク」にあるといえるでしょうか。リレーションによって焦点づけられる課題が「学級の内側」にあるとすれば、タスクによって焦点づけられるそれは「学級の外側」にあるからです。教員は、なかなか外に飛び出せない。冒頭の引用にある《今後は、教育現場のひとびとと、そういう「市井の心あるひとびと」が出会う場を創りたいですね》という中原さんの言葉につながる話だといえます。

 

すなわち、ビジネス領域におけるファシリテーションは、個人レベルの「ラーニング」の促進を通して職場のグループや組織を変えるアプローチから、グループや組織のレベルの「タスク」や「リレーション」を促進することを通して組織が変わるアプローチにシフトしていったことになる。

 

 中村さんの論考より。ビジネス領域に先駆けること数十年、学級の「ラーニング」と「リレーション」を同時に促進していた担任って、すごいなぁ。なんて浮かれていたからでしょうか。第Ⅲ部では、ハウツーを頼りにアクティブラーニング風の授業がそこかしこで展開されている学校現場に対する危惧が描かれています。ワークショップとファシリテーションが単なる「型」に堕してしまい、「主体的・対話的で深い学び」ではなく「他律的・雑談(茶番)的で浅い学び」に陥っているのではないかという問題提起です。

 

 そもそも教師が一方的に話をしているだけの一斉授業ばかりが150年間ずっと続いてきたという歴史の見立てそのものが誤っているうえに、主体的・対話的で深い学びをトップダウンで全国の学校・学級で実施するのに、十分な根拠も示さないまま(あるいは疑わしき根拠を示して)実施されようとしていることに対して、僕は問題提起してきたわけです。

 

 第Ⅲ部の「07  国策アクティブ・ラーニングの何が問題か」より。小針誠さんの言葉です。冒頭の中原さんの言葉《本当に心あるひと、志あるひとは、学校教育をみています》を回収するかのように、第Ⅰ部、第Ⅱ部、そして第Ⅲ部と進むにつれて、教育現場の話が多くなっていきます。第Ⅲ部の「08  反省性を統治する」には、以前に勤務していた小学校で長いことお世話になった三田地真実さん(著書に『ファシリテーター指南書』他多数)が登場し、何だか懐かしい気分に。三田地さんに教わったファシリテーターの心得の一つに、牧野智和さんも引用している《常に「Why?(なぜ)と問いかけること》があります。

 

 Why?(なぜ)こんな授業がデフォルトなのだろう。

 

 中野さんと中原さんが稀代のファシリテーターとなったのは、その絶望の深さゆえのことでしょう。絶望の深さ= Why?(なぜ)の深さ。絶望が問いを生み、問いがファシリテーションを要請したというわけです。最初に示した「なぜ社会はファシリテーションを必要としているのか」という問いに戻ると、日本社会のそこかしこで「絶望」が生まれているから、と答えるのが正解なのかもしれません。精神疾患による休職・病休が日常になっている学校現場でいえば、Why?(なぜ)は次のようになるでしょうか。

 

 Why?(なぜ)こんな働き方がデフォルトなのだろう。

 

www.countryteacher.tokyo

 

 オミクロン株の感染が促進されていないことを祈りつつ。

 

 おやすみなさい。