原作は短編なので、映画にするためには材料が明らかに足りない。なので膨らまさないといけないけれど、それが物語にとって見当違いなものではいけないわけですよね。プロットを書く際に原作を何度も読み返すうちに、「女のいない男たち」に収められた同時期に書かれた作品にはやはりどこか互いに共通するものを感じました。特に「シェラサード」と「木野」です。
(劇場用パンフレット『ドライブ・マイ・カー』ビターズ・エンド、2021)
おはようございます。10月1日に埼玉県・教員残業代訴訟の判決が出ました。労働基準法が定める残業代を支払わないのは違法だとして、原告の田中まさおさん(仮名)が、正しく傷つき、正しく怒って起こした裁判です。結果は、原告の敗訴。請求は認められないとのこと。換言すれば、現状維持です。
https://www.call4.jp/file/pdf/202110/2d91e4cd8a04bf11346c98bd6a8ce451.pdf
判決文別紙( ↑ )によると、例えば以下の仕事は証拠(具体的な内容やそれに要する時間)不十分、あるいは《個々の教員の教育的見地からの判断に委ねられている》という理由で教員の労働としては認められないそうです。
〇 児童が作成した掲示物や作文の添削及び評価の業務
〇 教材研究
〇 提出物(ドリルなど)の内容確認
〇 ドリル、プリント及び小テストの採点業務
〇 授業参観の準備
〇 保護者への対応
〇 児童のノートの添削
〇 授業で行った作業(社会の新聞など)の添削
〇 賞状の作成
〇 いじめ調査アンケートに関する業務
〇 就学時健康診断打合せ
〇 週予定表の作成
〇 学級通信の作成
〇 指導訪問指導案提出
〇 校内研修指導案提出
〇 学校行事の準備
〇 校内巡視・鍵閉め
〇 児童相談
断定的に《労働時間には該当しない》と書かれているものもあれば、推定的に《かかる業務に従事した時間を直ちに労働時間と認めることはできない》と書かれているものもあります。いずれにせよ、ツイッターなどで話題になっている《もっとも、実際にどの程度の授業準備を行うかについては、各教員の教育的見地からの自主的な判断に委ねられているから、最低限授業準備に必要と認められる限度でこれを認定すべきところ、その時間としては、1コマにつき5分間と認めるのが相当である》という箇所を含め、やれやれ、です。1コマにつき5分間というのは、おそらく子どもたちの下校時刻と教員の退勤時刻及び休憩時間をもとに勤務時間に収まるよう機械的に算出されたものでしょう。おそろしくドライです。
ドライブにでも行きたくなります。
9月のある晴れた朝に100パーセントの映画に出会いました。100パーセントの映画というのは、村上春樹さんの短編小説を原作にした、濱口竜介さんの『ドライブ・マイ・カー』のことです。カンヌ国際映画祭で日本映画としては史上初となる脚本賞を受賞した話題作。179分という大作ですが、その長さを全く感じさせることのない傑作です。
原作の「ドライブ・マイ・カー」が収録されている、村上春樹さんの短編集『女のいない男たち』を読んだのは、もうずいぶん前のこと。だからほとんど何も覚えていませんでした。が、映画の終盤、記憶がよみがえる場面があったんです。この台詞には覚えがある。それは、西島秀俊さん演じる主人公、舞台俳優で演出家の家福(カフクと読みます)が口にした《僕は、正しく傷つくべきだった》という台詞です。
おれは傷つくべきときに十分に傷つかなかったんだ、と木野は認めた。
家福ではなく、木野。帰宅してから『女のいない男たち』を開いて確認したところ、映画『ドライブ・マイ・カー』が、同タイトルの作品だけでなく、別の「女のいない男たち」もミックスさせていることがわかりました。それが冒頭の引用(濱口竜介さんへのインタビュー)にある「シェラサード」と「木野」です。
羽原と一度性交するたびに、彼女はひとつ興味深い、不思議な話を聞かせてくれた。
家福ではなく、羽原。羽原というのは「シェラサード」の主人公です。映画はこの性交の場面から始まります。西島さんは、学級担任がティーチャーとファシリテーターとコーチを同時に演じるように、家福と木野と羽原を同時に演じます。さらにはワーニャも演じます。ワーニャというのはもちろん、チェーホフの『ワーニャ伯父さん』のこと。映画『ドライブ・マイ・カー』は「シェラサード」と「木野」だけでなく、戯曲「ワーニャ伯父さん」をも劇中劇として抱えるという複雑な構造をとっているということです。それなのに、
100%の映画になっている。
三浦透子さん演じる運転手の渡利みさきのドライビング・テクニックに例えれば、変わらない速度計、そして滑らかな車線変更といったところでしょうか。作品から作品へと車線変更を繰り返しているはずなのに、それを全く感じさせません。さすがは脚本賞です。国際色豊かな俳優陣も、よい。ろう者のイ・ユナを演じたパク・ユリムさんと西島さんのラストの交わりも、よい。最初は後部座席に座っていた家福が、映画の後半は助手席に座るようになるところも、家福と渡利の関係性の変化が伝わってきて、よい。まるで『グリーンブック』(ピーター・ファレリー監督作品)のよう。
兎にも角にも、監督・脚本の濱口竜介さんは、授業のうまい学級担任が教科の枠にとらわれることなく横断的かつ総合的に学習をデザインするように、小説や戯曲の枠にとらわれることなく100%の脚本を書いているというわけです。渡利がギアシフトを感じさせないように、濱口さんも複雑さを感じさせません。だからこう思います。もしも埼玉県・教員残業代訴訟の裁判官が濱口さんだったら、判決文を書く際に学校に何度も足を運ぶなどして、教員の仕事の複雑性を理解した上で100%の判決文を書いただろうなって。
授業準備は1コマ5分。玄関開けたら2分でご飯みたいな話です。裁判の結審まで3年もかけておいて、よく言うなぁ。次元は異なれど、授業だって裁判と同じように複雑なのになぁ。
傷つきます。
時代が変わって、判決文をネットで簡単に読めるようになった世の中です。猪瀬直樹さんが道路の権力を相手に国民を代表して闘ってくれたように、田中まさおさんが学校の権力を相手に教員を代表して闘ってくれたことに感謝しつつ、その結果に正しく傷つき、正しく怒りを表明することが私たち教員に求められていることでしょう。平成の轍を令和で踏まないようにするために、
傷つくべきときに、
正しく傷つく。