田舎教師ときどき都会教師

テーマは「初等教育、読書、映画、旅行」

國分功一郎 著『暇と退屈の倫理学 増補新版』より。通知表よりも面談を、3期制よりも2期制を、退屈よりも興奮を。

 楽しむことは、しかし、けっして容易ではない。容易ではないから、消費社会がそこにつけ込んだのである。
 ラッセルはこんなことを言っている。「教育は以前、多分に楽しむ能力を訓練することだと考えられていた」。ラッセルがこう述べることの前提にあるのは、楽しむためには準備が不可欠だということ、楽しめるようになるには訓練が必要だということである。
(國分功一郎『暇と退屈の倫理学 増補新版』太田出版、2015)

 

 こんばんは。今日、ようやく通知表とさようならをすることができました。いやぁ、だいぶ手こずったなぁ。ちなみにわたしの自治体では、通知表のことを「あゆみ」と呼んでいます。

 

 最近、あゆみとうまくいってなかったんだ。

 

 あゆみと別れるときには、いつだって後ろめたさがあります。どんなに時間をかけて向き合ったとしても、愛を深めようとしても、裸になることも、心を届けることもできないまま関係が終わってしまうからです。うわべだけの付き合い。あゆみが両親の元へ帰ったときに、パパやママが「うちの娘がCのわけないだろう。説明しろ!」とかなんとか言って乗り込んでこないように、今回も自分をさらけ出さないよう、細心の注意を払い続けました。

 

 Cなんてつけない。

 

 以前に勤めていた自治体の校長会で、そういった話が出たそうです。Cをつけたら何らかの手立てを講じなければいけません。だったらつけない方がいい。相対評価ならいざ知らず、絶対評価のいま、ABC評価でCをつけるメリットはあるのでしょうか。Cをつけられた児童が発憤して勉強するようになるなんてことは、まずありません。ブロガーのインクさんも書いているように、そもそもテストで100点をとったり、通知表でAをとったりすることなんかに興味がないからです。

 

taishiowawa.hatenablog.com

 

 わかりあえないことから。

 

 100点に興味のない子と、100点をとらせたい担任と。通知表に興味がない子と、通知表に時間をとられる担任と。わかりあえないことから始めるしかないと思いつつ、後ろ髪を引かれる思いであゆみを管理職に手渡すと、しばらくした後、次のような走り書きとともに通知表が戻ってきます。

 

 わかりやすく ✕
 分かりやすく 〇

 

 わたしたちは、まだまだわかりあえそうにありません。分かる、解る、判る。複数の選択肢をもつ平仮名については、平仮名のままで書いた方がリーダーフレンドリーである。大学で卒業論文を書くときに、そう指導されました。色彩を持たない多崎つくるは「作る」でも「造る」でも「創る」でもない。つまりそういうことです。

 リーダーフレンドリーな文章を書かせたら世界一(!)という村上春樹さんの小説を引っ張り出すまでもなく、コミュニケーション能力を語らせたら日本一(!)という平田オリザさんの『わかりあえないことから』だって平仮名を使っているわけだし、わたしとしては「わかる」を選択したいところ。でも、あゆみとはうわべだけの付き合いなので、すぐに「分かりやすく」に訂正して再提出しました。ブログでは「分かる」なんて絶対に使わないのに。繰り返しますが、つまりそういうことです。あゆみには本当の姿を見せることができない。

 

 通知表ではなく、保護者との面談(或いは子どもを交えた三者面談)の方がいい。

 

 國分功一郎さんの『暇と退屈の倫理学』のあとがきに《「俺はこういうことを考えているんだ。君はどう思う?」と手渡せるものができた》とあります。2学期末に必要なのは、保護者とのこういった会話です。担任としてはお子さんの現状についてこう考えていますが、ご家庭ではどのようにお考えですか、云々。もしかしたら思いも寄らない素敵な話が展開されるかもしれません。制度上、退屈にならざるを得ない通知表では担うことのできないコミュニケーションです。

 ちなみに、昨年まで勤めていた学校は2期制(前期と後期)をとっていました。2期制の学校では、師走のこの時期に個人面談を行います。だから保護者と膝をつき合わせて「君はどう思う?」的なコミュニケーションをとることができます。通知表はありません。両方を経験すればわかることですが、労働時間が短縮される2期制の方が圧倒的に教員フレンドリーです。すなわち児童フレンドリーということ。夜遅くまであゆみのわがままに付き合わされて寝不足&不機嫌な担任よりも、ぐっすりと寝て上機嫌な担任の方が子どもたちにやさしい。

 

 ラッセルから遠く離れて。

 

 3ヶ月経ったらまたあゆみと再会するわけですが、ラッセルと再会するには、こちらからアプローチするしかありません。人生の正午と呼ばれる年齢を過ぎてからというもの、まだ読んだことのない本の頁を開く一方で、これまでに読んできた本を読み返すことにも意識的でありたいと思うようになりました。かける時間としては、ハーフ&ハーフくらいでしょうか。

 そんな意識もあって、國分功一郎さんの『暇と退屈の倫理学』を久し振りに読み返してみました。やはり、名著ですね。

 

 教育は以前、多分に楽しむ能力を訓練することだと考えられていた。

 

 通知表に、この能力を伸ばす効果はありますか?

 

 ありますの反対!