私の実感を込めて言えば、今、現実に起きているのは、官僚制を基礎とした縦割りによって責任の所在や対応の主体が曖昧になっていることだけではありません。程度差こそあれ、すべてのアクターが、公教育を自分の問題として引き受け、支え合うことがない。それゆえ、落ちこぼれにせよ、吹きこぼれにせよ、いじめにせよ、不登校にせよ、特別な教育ニーズにせよ、学級の荒れにせよ、あるいは不適切な指導にせよ、過酷な労働にせよ、さらには育児までも、これらの課題に直面した人だけが、当事者として孤立します。
(山口裕也『教育は変えられる』講談社現代新書、2021)
おはようございます。山口裕也さんには「わくわく」させていただいたことがあって、それは2016年の話で、杉並区の教育行政に携わっているという山口さんが、岩瀬直樹さんと苫野一徳さんが主催する「教師の学校」にゲストとしてやってきて、そこに私は参加していて、例えば杉並独自の学力調査に関して、山口さんは岩瀬さんの実践や苫野さんの哲学を引き合いにしながら、曰く《学びの構造転換の実現に資するように調査が設計され、結果が処理されている》云々って、パラフレーズすると「みんな同じ」から「みんな違う」に舵を切るために行政が現場を支えています(!)って、そういったことを詳細なデータとともに語ってくれるものだから、ホントもう「わくわく」してしまって、思わず、
挙手。
小心者の私に手を挙げさせるなんて、山口裕也(敬称略)、ただものではありません。わくわくはどきどきに勝る。私の質問は「今、杉並区の小学校に行ったら、みんな同じではなく、みんな違うを前提とした岩瀬さんのような教室を、100パーセントとまではいかないものの、いくつかの小学校で見ることができるんですか?」というもの。わくわくしながら質問し、わくわくしながら答えを待ちました。先月末に始まった文科省の「#教師のバトン」プロジェクトが、行政と現場の溝を浮き彫りにしていますが、もしも行政と現場がガチでコラボしたら、教育は変えられる(!)かもしれないと思っていたからです。わくわく。しかし山口さんから返ってきた答えは「ノー」でした。教育は変えられるけれど、まだ変わっていないということ。
残念。
その山口裕也さんが本を出しました。あれから5年。もしかしたら「イエス」という答え、すなわち「教育は変わった」ということが書かれているかもしれない。そう思ってわくわくしながら読み始めたのが『教育は変えられる』です。
山口裕也さんの『教育は変えられる』を読みました。杉並での14年間を総括する一冊ということで、本の帯には《これから教育が向かうべきビジョンとロードマップ、そのすべてがこの本に描かれている》(By 苫野一徳)とあります。章立ては、以下。各章のタイトルからも、これからの教育のことが全方位的に「すべて」書かれていることがわかります。「過去」から〈未来〉へ。
第一章 自分の物語を生きるための学び ――「一斉・一律」から〈多様性と一貫性〉へ
第二章 生かしあう人材と組織 ――「依存と孤立」から〈協働〉へ
第三章 求めに応える施設・設備 ――「定型・無味」から〈応答性〉へ
第四章 引き受け合う行政財 ――「無責任」から〈支援と共治〉へ
第五章 自分たちの物語を紡ぐための公教育 ――「外在」から〈内在〉へ
第一章の前に置かれた「まえがき」のサブタイトルは「教育は変えられる」(他動詞)、第五章の次に置かれた「おわりに」のサブタイトルは「教育は変わる」(自動詞)です。「他動詞」から〈自動詞〉へ。
ノーは、イエスに変わったのか。
結論を先に書けば、答えはやはり「ノー」のままでした。もしも「イエス」だったら「おわりに」のサブタイトルは「教育は変わった」だったでしょう。第一章にある《つまり、教育は、誰もが納得できるよう、すべての人に自由と相互承認の感度を育もうとするとき、初めて「よい公教育になる」のです》や、第五章にある《教員一人当たりの児童(生徒)数は、24名を標準にすることが望ましい》など、理想は語られています。第四章にある《言い換えれば、教育がよりよく公で在るためにこそ存在するべきはずの教育行財政が、「すべての人の合意」を意味する普遍意志、とりわけ「すべての人のよりよい生」を目指す普遍福祉に反した ―― これが、新自由主義-教育改革という問題の根なのです》など、現実も語られています。つまり、
教育はどこから来てどこへ行くのかは語られている。
でも、それは悪いことではないものの、教育はいつまでもビジョンのままであり続けるのだろうなって、後半に書かれていた《「たとえ理想であっても、いや、もし『理想』だと考えてくれるのなら、なおさらその実現に至る『ロードマップ』をみんなで一緒に敷いていきたい」》という山口さんの台詞や、最後に書かれていた《私は、2019(令和元)年8月31日をもって、杉並区の仕事に一区切りを置きました》という文章を読んで、そう思いました。そしてこんなふうにも思います。
うまくいっていたら、辞めないのではないか?
5年前、教師の学校に参加していた杉並区のちょっと有名な中堅どころの先生も、昨年度末に公立の小学校を辞めたという話を耳にしました。真相は知りませんが、苫野一徳さんが軽井沢風越学園(岩瀬直樹 校長)から身を引いたという話や、リヒテルズ直子さんが大日向小学校(しなのイエナプランスクール)から身を引いたという話、ここ数年耳にしたその他諸々の話と合わせて勝手に想像すると、やはり「教育は(すぐには)変えられない」と思ってしまいます。
ポイントは、知識として「知っている」からこそ働く「見方」と「考え方」があるということです。
第三章に出てくる言葉です。これ、いいなぁ。学校現場を知っているからこそ働く「見方」と「考え方」がある。私の実感を込めて言えば、教育を変えていくには、山口さんの『教育は変えられる』に書かれているような「正しさ」だけでなく、もっともっと「楽しさ」が必要なのだと思います。教員の長時間労働(+無賃労働)が致命的なのは、その「楽しさ」が損なわれるから。ローカルアクティビストの小松理虔さんが言うところの「不真面目な場づくり」や、社会学者の宮台真司さんが言うところの「正義から享楽へ」という見方・考え方を、もっともっと現場に取り入れたい。
「当事者」から〈共事者〉へ。
「任せて文句たれる」から〈引き受けて考える〉へ。
上段は小松さん、下段は宮台さんがよく書いたり話したりしている台詞です。山口さんの本に「共治」という言葉が出てきますが、冒頭に引用した文章と合わせて、意図していることは小松さんや宮台さんと同じです。「当事者」から〈共事者〉へ。「任せて文句たれる」から〈引き受けて考える〉へ。そして「他動詞」から〈自動詞〉へ。そういった変化に必要なのは、すなわち教育を変えていくために必要なのは、ある種の「不真面目」と「享楽」であるということ。土曜授業の翌日でぐったりしている今だからこそ、本当にそう思います。教育を変えるためにも、
働き方にわくわくを。
「正しさ」から〈楽しさ〉へ。