死に場所を探して上野公園で何日か過ごすうちにくたびれ果てて、五年間もここに居着いてしまった。
冬場は辛い。
夜は寒くてよく眠れず、昼の間にコヤから出て猫のように日溜まりを追いかけてうたた寝する日々は、かつては家族の一員であったことを忘れそうなほど惨めだった。
(柳美里『JR上野駅公園口』河出文庫、2017)
こんばんは。今日は久しぶりにあたたかな1日でした。ここ最近寒さが厳しく、路上生活者のことが気になっていたので、少しですが、ホッとします。普段は意識することのない路上生活者のことが気になったのは、柳美里さんの『JR上野駅公園口』を読んだから。それから、コロナの影響で住まいを失った人たちが野宿をしているというニュースを見たからです。
冬場は辛い。
何年か前の冬、柳美里さんの生まれ育った黄金町を歩いていたときに、路上生活者とおぼしき女性から「邪魔なんだよお前ら」と罵倒されたことがあります。罵倒してきたのは街灯の下に座っていた70代くらいの小柄な女性です。私と友人はその前をただ通り過ぎただけだったのに、だから物理的には邪魔ではなかったはずなのに、邪魔なんだよお前らって、
ひどいなぁ。
友人との会話が一瞬止まって、その沈黙が家の在るひとと無いひとの交わらなさを短く濃く映し出したものの、途切れた会話はすぐにまた始まり、老女の存在はなかったことに。2020年全米図書賞(翻訳文学部門)を受賞した、柳美里さんの『JR上野駅公園口』にも、在るひとと無いひとの交わらなさが、ある種の諦観とともに淡々と描かれていて、共感を覚えます。
彼らの話に相槌を打ったり質問をしたりしていると――、七十代の男性が、わたしとのあいだの空間に、両手で三角と直線を描きました。
「あんたには在る。おれたちには無い。在るひとに、無いひとの気持ちは解らないよ」と言われました。
彼が描いたのは、屋根と壁――、家でした。
柳美里さんの『JR上野公園口』を読みました。柳美里さんの本を読むのは久しぶりです。
学生のときに『フルハウス』や『ゴールドラッシュ』を読んで好きになって、帰省した折に新宿の紀伊國屋でサインをもらってさらに好きになって、握手もしてもらってさらにさらに好きになって、そのときは訊かれてもいないのに「田舎教師に憧れて、今、東北の漁師町にある小学校で働いているんです」って自分語りを始めてしまうくらいにバカ丸出しで、端で見ていた未来のパートナーには「おかしいから」って笑われてしまう始末。
そんな懐かしい「あの日」は2003年のことだから、ホント、久しぶりに読みました。あのとき以来、柳美里さんの作品から遠ざかってしまったのはなぜだろうって、さっきからずっと考えているのですが、理由は思い当たりません。サインと握手でお腹いっぱいになったのでしょうか。いずれにせよ、10数年振りの再会です。久しぶりに読んだ柳美里さんの作品は、角が取れてというか何というか、ずいぶんと大人びた作風になったなって、そう感じました。
『JR上野駅公園口』の主人公はホームレスの男性です。現在、柳美里さんが住んでいる福島県の南相馬市で生まれ育ち、70歳の今は上野恩賜公園で「これまでと同じように」過去の中を生きているという設定です。
写真を持ち歩いたことはなかった。でも、いつも、過ぎた人、過ぎた場所、過ぎた時間は、目の前に在った。いつも、未来に後退りながら、過去だけを見て生きてきた。
主人公の回想に、しばしば市井の人々の会話が無関係に「入り込む」というかたちで物語は展開していきます。例えば《「あそこのビーフシチュー屋さん、この前行ったら、やってなかったのよ」》みたいに。「邪魔なんだよお前ら」って、主人公が怒り出さないのはやさしいからでしょう。やさしくても、真面目に生きていても、不運が続くことによって、私にもあなたにもホームレスになってしまう可能性がある。
昔は、家族が在った。家も在った。初めから段ボールやブルーシートの掘っ立て小屋で暮らしていた者なんていないし、成りたくてホームレスに成った者なんていない。
それなのに、いつ自分がそうなるかもわからないのに、市井の人々の会話と主人公の人生が交わることはありません。小学校の教員が学級づくりで意識するリワイヤリング、いわゆる関係性のつなぎ直しのようなことが行われる機会はないということです。むしろリワイヤリングの逆のようなことが行われている。それが、
山狩り。
山狩りというのは《天皇家の方々が博物館や美術館を観覧する前に行われる特別清掃》のことです。天皇の視界にホームレスが入り込まないように、一時的に排除するんですよね。成りたくて成ったわけではないのに、ミカドの祈りの対象からも外されるというわけです。国民なのに、人間なのに、邪魔なんだよお前ら、って。
ひどいなぁ。
猪瀬直樹さんのミカド三部作を読み終えた後に柳美里さんの『JR上野駅公園口』を読み始めたら、目次に「解説 天皇制の〈磁力〉をあぶり出す 原武史」と書いてあって、びっくり。またミカドだ。ちなみにミカド三部作の完結編である『欲望のメディア』の解説は東浩紀さんが書いていて、東さんの名前にある「浩」は天皇(浩宮徳仁親王)からとったもの。『JR上野駅公園口』の主人公の子どもである「浩一」も同様で、これまたびっくり。
天皇制の磁力はどこまでも。
だからこそ、学級で「ひとりも見捨てない」ことを大切にするように、社会でも「ひとりも見捨てない」ことを大切にしてほしい。原発の被害者も、コロナで仕事を失った人も、ホームレスも、私もあなたも、一人残らず国民です。もちろん国民だけでなく、日本に住む外国の人も大切にしてほしい。
《冬場は、辛い。夜は寒くてよく眠れず、昼の間にコヤから出て猫のように日溜まりを追いかけてうたた寝する日々は、かつては家族の一員であったことを忘れそうなほど惨めだった。》
— CountryTeacher (@HereticsStar) January 16, 2021
2020年全米図書賞(翻訳文学部門)を受賞した、柳美里さんの『JR上野駅公園口』(河出文庫)より。想像力の一助に。
上記のリプを柳美里さんにリツイートしていただきました。私です、2003年3月29日に新宿の紀伊國屋でわけのわからないことを口走っていた田舎教師です、って覚えているわけありませんね。
ひとりも見捨てないこと。
コロナ禍の今だからこそ。