田舎教師ときどき都会教師

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ヤニス・バルファキス 著『父が娘に語る 美しく、深く、壮大で、とんでもなくわかりやすい経済の話。』より。がんばる子どもはOK。でも、がんばりすぎる教員はNGかもしれない。

 しかし市場社会では、漁師はみな起業家として競争しあうことになっているので、競争に反する約束(や法律)は起業家精神に反する。地元のパブでビールを飲みながら、100人の漁師全員が、漁をするのは1日1時間にするのが合理的だと同意しても、実際には2時間も3時間も、その先も、1時間あたり2匹より多く取れる限りはずっと続けてしまいたくなるはずだ。
(ヤニス・バルファキス 著、関美和 訳『父が娘に語る 美しく、深く、壮大で、とんでもなくわかりやすい経済の話。』ダイヤモンド社、2019)

 

 こんばんは。ブレイディみかこさんが原書を読んで圧倒されたという、ヤニス・バルファキスさんの『父が娘に語る 美しく、深く、壮大で、とんでもなくわかりやすい経済の話。』(関美和 訳)を読みました。ブレイディみかこさんの『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』と同じように、ページをめくる手が止まらなくなるような類いの本です。

 

 

「パパ、どうして世の中にはこんなに格差があるの?」

 

 ヤニス・バルファキスさんが娘に語る「とんでもなくわかりやすい経済の話」に耳を傾けながら、思い出したことがあります。

 それは、同じ職場の先生に「あいつはやりすぎだ!」と陰口をたたかれていたカリスマ教師が「でも、教室でがんばっている子に、がんばりすぎで迷惑だから、ちょっとがんばるのやめなよ、って言う担任はいないでしょ」と話していたことです。

 

(そのときは)納得。

 

 学級担任が、教室でがんばっている子どもに「がんばりすぎだよ」と否定的に言うことはありません。がんばっている子の存在が、クラスの雰囲気を前向きなものにしてくれるからです。一方、職員室でがんばっている同僚にも、面と向かって「がんばりすぎだよ」と否定的に言うことはありません。大人だし、立場が対等だし、それぞれ必死だからです。

 

 でも本当は、大人には言うべきなのかもしれません。

 

 ヤニス・バルファキスさんの本を読んでそう思いました。

 

 大人の場合、どこかで誰かが線引きをしないと、その場にいる多くの構成員が「がんばりすぎ」に巻き込まれてしまいます。巻き込まれた未来には、上記の引用に続く文章でいうところの《100人の漁師が何時間も釣りを続けているうちに、マスの数は減り、そのうちマスは川から消え失せてしまう》という結果が待っています。教育現場に例えれば、100人の教師が年に何千時間ものサービス残業を続けているうちに、教師の数は減り、そのうち教師は学校から消え失せてしまう、となるでしょうか。過労死レベルの定額働かせ放題も、今日のニュース「公立小学校の教員の採用2.8倍で過去最低(毎日新聞)」も、もとをたどれば市場社会的(資本主義的)な「がんばりすぎ」に行き着きます。

 

 交換価値。

 

 漁師は、がんばればがんばるほど、交換価値を反映した市場価格、すなわち「お金」を得ることができます。教師の場合は、この「お金」が「承認」に変わります。すなわち、がんばればがんばるほど、子どもや保護者、そして同僚からの「承認」を得ることができるというわけです。市場社会の「がんばり」はお金をてこにして回り、学校社会の「がんばり」は承認をてこにして回る。お金も承認も、その「上限のなさ」ゆえに、際限のない「がんばり」を漁師や教師に求める危険性があります。

  

 経験価値。

 

 交換価値の対極にあるまったく別の種類の価値として、ヤニス・バルファキスさんは「経験価値」というものを想定しています。海に飛び込んだり、夕日を眺めたり、砂浜で我が子と追いかけっこをしたり。どれも経験として大きな価値をもつもので、他の何ものにも代えられない、素晴らしい人生の一コマです。

 

 この経験価値が、いつからか蔑ろにされるようになってしまった。

 

 言い換えると、いつからか経験価値よりも交換価値の方が上だと見なされるようになってしまった、というのがヤニス・バルファキスさんの本の肝です。そしてこのことが、ヤニス・バルファキスさんの娘が抱えている「なぜ格差が存在するのか」という問いに対する思考の補助線となります。

 交換価値が経験価値を凌駕するようになった結果、地元のパブでビールを飲むことができなくなった。定時で帰ることもできなくなった。あげく、格差がどんどん広がっていった。

 

 なぜでしょうか。

 

 資本主義や「お金」という文脈では、よくある話なのかもしれません。しかし、学校社会と「承認」という文脈についていえば、「がんばりすぎる」という問題は、がんばる内容にもよりますが、意外と光の当たらない、しかし根深い問題のような気がします。というのは、カリスマ教師(?)である堀裕嗣さんが言うように、学級経営は相対的に評価されるという特徴をもっているからです。

 

kotonoha1966.cocolog-nifty.com

 

 根深い問題というのは、交換価値を上位に置く「がんばりすぎる」A先生がいると、経験価値を大切にしているB先生は子どもからも保護者からも同僚からも白い目で見られる可能性があるという「あれ」です。

 

 無限の承認欲求と、無限に思える業務と。

 

 学校社会って、ややこしいなぁ。ややこしさを解決してくれる、「美しく、深く、壮大でとんでもなくわかりやすい教育の話」を、堀裕嗣先生か、「ツイートの3行目」で知られるブロガーのインクさんに期待したいところです。

 

 おやすみなさい。