田舎教師ときどき都会教師

テーマは「初等教育、読書、映画、旅行」

やなせたかし 著『アンパンマンの遺書』より。伝記を読み、自分の生き方を考えよう。なんのために生まれてなにをして生きるのか。

 担任は杉山豊先生であった。
「諸君は既に紳士である。自由に責任をもって行動してほしい。ただ一言注意しておくのは、あまり机にかじりついて勉強しているようでは碌な作品はできない。ここは銀座に近い。一日に一度ぐらい銀座に出て散歩するがいい。そこで吸収するものは、学校で習うものよりも栄養になる。図案科に入ったからといってデザイナーにならなくてもいい。小説家でもダンサーでも何でもいい」
 杉山先生はちぢれ毛で、両方の眼が開いているが、都会的に洗練されていた。
 ぼくは感動した。いい学校へ入ったと思った。
(やなせたかし『アンパンマンの遺書』岩波現代文庫、2013)

 

 おはようございます。オリンピックも終わったことだし、一度ぐらい銀座に出て散歩するがいいって、誰かがバッハ会長に勧めたのでしょうか。ニュースによると、9日、IOCのトーマス・バッハ会長が不要不急の「銀ブラ」をしていたとのこと。時期が時期だけに一部で炎上しているそうですが、何が正義なのかはよくわからないというのが正直なところです。やなせたかしさん(1919-2013)も《正義は或る日突然逆転する》って言い遺していますから。パラレルワールドではコロナはとっくに収束していて、バッハ会長はアンパンマン的存在だったかもしれません。

 

 ああ トーマス・バッハ
 やさしい 君は
 いけ! みんなの夢 守るため

 

 ちなみに「銀ブラ」という言葉は大正時代からの俗語だそうで、おそらくはやなせさんの担任の先生は今でいうところの「ブラタモリ」的な教育効果を期待して学生さんたちを銀座に送り出したのでしょう。やなせさん曰く《花売娘からも、乞食からも、サンドイッチマンからも、かわいい新聞売子の娘からも、映画館のモギリ嬢からも、喫茶店のウェイトレスからも学んだ。みんなぼくの先生だった》云々。これぞ令和が目指す「社会に開かれた教育課程」です。さて、バッハ会長は銀座で何を学んだのでしょうか。いつかバッハ会長の伝記を読んでみたいものです。

 

 はーひふーへほー。

 

 

 やなせたかしさんの『アンパンマンの遺書』を読みました。小学5年生の国語の教科書(光村図書)に載っている、伝記『やなせたかし - アンパンマンの勇気』の大人ヴァージョンといえる一冊です。構成はオーソドックスに起承転結。冒頭の引用は、起の巻「アンパンマン以前史」より。

 

 起の巻「アンパンマン以前史」
 承の巻「アンパンマン創成期」
 転の巻「アンパンマン盛期」
 結の巻「アンパンマン未来期」

 

 まずは、起の巻。幼い頃に父親を亡くしその後母親に養子に出されても、軍隊に入って人殺しのけいこをさせられても、検査官に《「貴様は父も母もなく、弟は養子に出て、戸籍ではたったひとりか。国家のために一身を捧げても泣くものはいないな。心おきなく忠節をつくせ。おめでとう」》なんて言われても、決シテ瞋ラズ。戦後、好きだった女の子に「あなたっていい人だけどダメね、さようなら」と言われても、小田急線の車内で包丁を振り回したりせず、イツモシヅカニワラッテヰル。やなせ少年の、そしてやなせ青年の、どこか宮沢賢治の「デクノボー」にも通ずるような生き方が描かれているのが「アンパンマン以前史」です。

 

 なんとか餓死することもなく、まあ、恋愛結婚もどきの伴侶を得て、ぼくは結婚してからが青春のような気がする。
 貧しいが楽しかった。

  

 起の巻のラスト、やなせさんはすでにアラサーです。生まれたときはスペイン風邪の猛威の中、そして青春はほとんど戦争の暗雲の中、それでも《貧しいが楽しかった》というところに着地することができたのは、やなせさんが「アラユルコトヲジブンヲカンジョウニ入レズニ」生きていたからでしょう、たぶん。

 

 次に、承の巻。

 

 ここでは手塚治虫や永六輔、宮城まり子や吉行淳之介ら多彩な人々が登場します。そして、そういった多彩な人々を通して、投書漫画家でしかなかったやなせさんのもとに、なぜか、さまざまな仕事が舞いこんできます。本人も《なぜ、ぼくのような無名の漫画家で、明らかに容貌風姿が平均点以下の人間のところへ、こんな話が舞いこんでくるのだろう》と書いています。デクノボー故の人気でしょうか。ときはテレビジョンの創成期。こんな話というのは、NHKの「漫画学校」への出演オファーのことです。すげ~。さらには手塚治虫が手がける映画の仕事にもかり出されたりして、テレビに映画に演出に音楽にラジオに絵本にって、まるで全教科を教える小学校の先生のように八面六臂の働きを続けます。転機を準備するのは、フレーベル館という絵本出版社との縁。絵本『やさしいライオン』がヒットしたことで、子ども向けの絵本の仕事がだんだんと増え始めます。とはいえ、その日暮らしの生活は続き、気がつけば、もうアラフィフ。

 

 果たしてこの先面白くなるかどうか、ぼくの人生はなすこともなくだらだらと晩年にむかって傾斜をころげて行くのだろうか。

 

 アラフォー、アラフィフの不安を代弁してくれていて、よい。

 

 そして、転の巻。絵本『やさしいライオン』がやなせさんの人生に転機をもたらし、漫画から絵本へとその軸足をシフトさせていきます。その中で生まれたのがアンパンマン。親の死にもマケズ、弟の死にもマケズ、戦争にも長かった無名時代にもマケズ、確固たる体験のプラットホームから導き出された《正義とは何か。傷つくことなしに正義は行えない》というメッセージを携えて、顔のないヒーローが空を舞います。

 

ほんとうの正義というものは、けっしてかっこうのいいものではないし、そして、そのためにかならず自分も深く傷つくものです。そしてそういう捨身、献身の心なくしては正義は行えませんし、また、私たちが現在、ほんとうに困っていることといえば、物価高や、公害、飢えということで、正義の超人はそのためにこそ、たたかわねばならないのです。

 

 大人には不評だったものの、徐々に《幼児という批評家》の心をつかみはじめ、アンパンマンはやがて、テレビの世界へと飛び立ちます。やなせさんはそのとき69歳。老人手帳と年金を手に、そしてアンパンマンの作者というアイデンティティを手に、いよいよ人生が盛り上がってきたというわけです。

 

 最後に、結の巻。

 

 アンパンマンが独り立ちした後の、伴侶との別れが描かれています。途中、《このお話は「愛妻物語」ではない》と断わりつつも、「カミさん」、それから「妻」という言葉が繰り返し登場します。アンパンマンよりも、糟糠の妻。そういうものなのだろうなぁ。

 

 ぼくら夫婦には子供がなかった。妻は病床にアンパンマンのタオルを積みあげて、看護婦さんや見舞客に配っていた。アンパンマンがぼくらの子供だ。

 

 といいつつ、

 

 妻以外の女性を愛さなかったかといえば嘘になる。AB型、水瓶座の血は移り気で多情でだらしない。しかしおなじ血の性質として、深入りすることはなかった。

 

 そういうものなのだろうなぁ。巻末には「岩波現代文庫あとがき」に代えてというかたちで「九十四歳のごあいさつ」が載っています。曰く《想像していた平安な老後とは全く違うものになった》云々。アンパンマンミュージアムの建設やら自力でのアンパンマンコンサートやら、老いてますます盛んなり。ちなみにやなせさんの伝記を扱う5年生の国語の単元名は「伝記を読み、自分の生き方を考えよう」です。

 

 なんのために生まれてなにをして生きるのか。

 

 大人も、考え続けよう。