アメリカの方は、日本に勝った後にどうやって占領するかの計画を早々と立案していた。日本人のものの考え方とか組織の作り方とかを戦時中に学者に委託して研究しています。卓越した日本人論として今も読み継がれている『菊と刀』はルーズベルトが設置した戦争情報局の日本班のチーフだったルース・ベネディクトが出した調査報告書です。日本社会を科学的に研究して、どういう占領政策が適切かを戦争が終わる前にもう策定していた。
果たして日本の大本営にアメリカに勝った後、どうやってアメリカを統治するか、何らかのプランがあったでしょうか。
(内田樹『サル化する世界』文藝春秋、2020)
こんばんは。臨時休校の延長を受けて、黄金の3日間が子どもたち不在のまま過ぎていきました。6月に予定している日光の宿泊体験学習のわくわくエピソードに絡めて「人の悪いところを見たり聞いたり言ったりしない」という三猿の話をするつもりでしたが、それもままならず。来週行くはずだった下検分も中止になってしまいました。いったいこの先どうなるのでしょうか。
この先は見ざる。
この先は聞かざる。
この先は言わざる。
新型コロナウイルスの検査をあまりしなかったことが現状の「見ざる」につながり、ダイヤモンド・プリンセス号から感染症医の岩田健太郎さんを追い出したことが専門家の意見を「聞かざる」につながった。そういう見方があります。その見方からすると非常事態宣言をなかなか出さなかったことは「言わざる」につながっているといえるでしょう。見ざる聞かざる言わざるのダーク・サイドです。 ことわざでいえば、サルも木から落ちる。外見だけを取り繕って中身が伴わないことを表わす「サルに烏帽子」でもいいかもしれません。
こんなことを続けていると、いつか大変なことになる。
それがわかっていながら、為政者の面々が「サルに烏帽子」をだらだらと続けているように見えるのはなぜでしょうか。未来に抱え込むことになる損失やリスクはイメージできているのでしょうか。先が見えていないという意味では《データをごまかしたり、仕様を変えたり、決算を粉飾したり、統計をごまかしたり、年金を溶かしたりしている人たち》と同様に、布マスク2枚を配っている人たちも、今さえよければいいという「朝三暮四」のサルと似ているような気がします。
朝三暮四
狙公(=猿回し)が猿にトチの実を朝に三つ、暮れに四つ与えると言ったら猿が怒り出したので、朝に四つ暮れに三つやると言ったところ猿が喜んだというもの。
大辞林第三版の解説より。
ここにきて一段と日本社会のサル化が進んでいる。内田樹さんがそう感じるのも頷けます。
内田樹さんの『サル化する世界』を読みました。本人も書いていますが《いささか挑発的なタイトル》のエッセイ集です。ネコ化でもなくイヌ化でもなくイルカでもなく、サル化する世界。今さえよければいい、自分さえよければいい。そういう刹那的な考え方をする人たちがマジョリティーを形成するようになってきた世界のことを、内田樹さんは「サル化」と表現しています。
朝三暮四 → 朝四暮三
これならまだいい。でもサル化が進むと「朝七暮ゼロ」になってしまうかもしれない。そうすれば社会が壊れていったんはリセットできるものの、それは哀しい。内田樹さんは第二次世界大戦を例に挙げて、ミッドウェー海戦(1942年)で負けた時点で戦争を止めていれば、日本人の300万人の死者のうち、95%は死なずに済んだ、と書きます。沖縄戦も原爆投下もなかっただろう、とのこと。
42年の時点で日本国内に停戦を主導できる勢力が育っていれば。
新型コロナ感染拡大を受けての非常事態宣言が1週間早かったら。
死の匂いは薄らいでいただろうに。たらればですが、とにもかくにもプランなしの「そのうちなんとかなるだろう」では駄目だということです。
あれ、いささか挑発的に『サル化する世界』(2020)に警鐘を鳴らす一方で、自身の人生については『そのうちなんとかなるだろう』(2019)とはどういうことでしょうか。去年と今年で言っていることがまるで違うというのはどういうことでしょうか。先生、矛盾しています!
教師 ≒ 葛藤させる人。
さすが、内田樹さんです。著書『待場の教育論』で《先生の言うことは論理的には「おかしい」のだけれど、実感としてはきわめて切実である。それでいいのです。教師は言うことなすことが首尾一貫していてはいけない》と書き、子どもに、そして読者に、葛藤を通した成熟を求めているだけのことはあります。道徳の授業における葛藤場面のようなものです。
休校だけど、学童はOK。
どう思う?