道徳科と学活の違いは、一般に次のように説明されます。道徳科の目標が主として道徳性を養うことであるのに対して、学活の目標は主に学級に関する課題を解決することである、と。目標が異なる以上、両者の教育は区別されなければならない。そうしばしば言われます。
でも、これは非常におかしな話です。というのも、子どもたちは、学級の課題を共に解決する経験をたっぷり積むことでこそ、道徳性――相互承認の感度――が育まれるはずだからです。
(苫野一徳『ほんとうの道徳』トランスビュー、2019)
こんにちは。今日はこれから長女のスマホを買いに行きます。高校生(中高一貫校の後期課程)を目前にしてついにスマホデビューです。4月になったらと思っていましたが、前期課程にあたる中学校が「準備期間」と称して、3学期からスマホの持ち込みを可にしたらしく、「パパ、買って」とのこと。娘が言うには、教室の風景が一変したそうです。スマホ、なかなかの破壊力だなぁ。
パパ、買って。
スマホに負けず劣らず、数年前、次女が「パパ、おうちかって。〇〇ちゃんの700えんつかってもいいよ」と言ったときもその破壊力にたじろぎました。
そっか、700円も出してくれるのか。
昨日、Twitterに「居酒屋店員A@shibaata_teppan」さんの《親が生半可に綺麗でいようとするんじゃないよ。正しい方向に導くって、一時的に嫌われるリスクとの戦いなんだ》というつぶやきが流れていて感銘を受けましたが、普段はつっけんどんな思春期の長女がときどきつぶやく「パパ、買って」にはなかなか抗うことができません。小さい頃からあまりモノを欲しがらなかっただけに、なおさらです。「パパ、買って」の背後にママの姿が見え隠れすることもしばしばとはいえ、長女の「ほんとうの気持ち」と思って、スマホデビューを祝いたいと思います。
稀代の哲学者が『ほんとうの道徳』という本を出すからには、きっと「うその道徳」というものが現場で跋扈しているに違いありません。みなさんは、小学校のときの道徳の授業って、覚えていますか?
学生時代の友人に同じことを訊ねたところ、5年か6年のときに教えてもらった「星野君の二塁打」は覚えている、と話していました。『ほんとうの道徳』にも登場する有名な教材です。
監督から出ていたバントの指示を無視して二塁打を放った星野君。でも監督は、勝利の立役者である星野君を「ルールを踏みにじった不届き者」として皆の前で叱責し、次の大会での出場禁止を言い渡します。
さて、この監督の判断は正しいのでしょうか?
この教材は内容項目と呼ばれる道徳的価値の中の「規則の尊重」を扱ったものです。苫野一徳さんは、もしも教師がこの「規則の尊重」を絶対的なものとしてとらえ、それを授業のゴールに設定してしまうと、いくら文部科学省いうところの「考え、議論する道徳」の授業をしたとしても「茶番になる」と言います。茶番=うその道徳のできあがり。なぜなら次の問いが黙殺されるからです。
ルールは自由を縛るものなのか?
最初に赴任した県では「道徳的価値を扱いさえすれば、どのような授業をしてもよい」と教えられました。次に赴任した県では「教材(読み物)を扱うのは長くても15分くらいにして、普段の生活のことを考えさせなければダメ」と教えられました。そのまた次に赴任した県では「道徳の授業の最後によくある教師の説話は要らない」と教えられました。そしてそのまた次に赴任した~、以下永遠に続く。
県をまたぐたびに変わるルール(縛り)。
いったい何が正解なのでしょうか。先日、社会派ブロガーのちきりんさんが、世界は「化石燃料NG」という話をしているのに、日本だけが火力発電所の性能をPRしていることを揶揄し《日本は環境問題を「技術の問題」だと思ってるけど、世界は環境問題を「思想の問題」だと思ってる》とツイートしていて、教育問題も同じだなぁと思いました。日本の教育(先生たちの研究)は、授業スキルにめちゃくちゃ偏っていますから。苫野一徳さんの『ほんとうの道徳』は、最初に次のような結論を述べた上で、ほんとうの道徳&技術の背後にあるほんとうの思想&哲学を描いています。
(前略)実は原理的に言って、「道徳教育」は本来学校がやるべきことではないんです。
代わりにやるべきは「市民教育」なんです。
原理的に、というのは、道徳は「ある共同体の価値」であり普遍的なものではない、ということを指しています。県をまたぐと道徳の授業の在り方が変わるのと同じです。そして冒頭の引用に続けて、こう書きます。
キルパトリックが言うように、「私たちは市民性を実践しなければ市民性を学べない」のであり、コールバーグが言うように、「学校を民主的なコミュニティにする」経験を通してこそ、道徳性は存分に育まれるはずなのです。
だから冒頭の「道徳と学活は峻別すべし」というような話は非常におかしい。苫野一徳さんが言うように、道徳教育(というより市民教育)の基本は、子どもたちが多様性に基づく市民ルール(学級のルール)をつくり合う経験に開かれていること、そしてそれを積むことにあるからです。
星野君の二塁打を通して「規則の尊重」を教えるなんて、おかしい。「ルールを守る」ことばかり教えて、「ルールをつくる」ことを教えないのは、おかしい。無言清掃も無言給食も、おかしい。ブラック校則や教員の定額働かせ放題も、おかしい。教育問題を思想や哲学の問題としてとらえないから、うその道徳に限らず、いろいろな面で「うその教育」になってしまっている。
求む、星野君。
苫野一徳さんの『ほんとうの道徳』は、道徳だけでなく、「ほんとうの教育」を考えるきっかけも与えてくれる一冊です。教室の風景を一変させる力をもった一冊とも言えます。授業の在り方もスマホの使い方も、星野君のように自分で考え、試行錯誤してみなければ「ほんとうの市民」にはなれません。
うそかまことか。
同様の破壊力をもつ『愛』と一緒に、ぜひ読んでみてください。