一般には、生活内容が興味深く新奇であれば、そのために時間は「追い払われる」、つまり時間の経つのが短くなるが、単調とか空虚とかは、時間の歩みにおもしをつけて遅くすると信じられているが、これは無条件に正しい考えではない。一瞬間、一時間などという場合には、単調とか空虚とかは、時間をひきのばして「退屈なもの」にするかもしれないが、大きな時間量、とほうもなく大きな時間量が問題になる場合には、空虚や単調はかえって時間を短縮させ、無に等しいもののように消失させてしまう。その反対に、内容豊富でおもしろいものだと、一時間や一日くらいなら、それを短縮し、飛翔させもしようが、大きな時間量だとその歩みに幅、重さ、厚さを与えるから、事件の多い歳月は、風に吹き飛ばされるような、貧弱で空虚で重みのない歳月よりも経過することが遅い。
(トーマス・マン『魔の山(上)』新潮文庫、1969)
もう回ってきたの(?)。
こんばんは。今日、一ヶ月に一度の間隔で回ってくる仕事にそんな感想を抱いてしまいました。「抱いてしまいました」とマイナスの意味合いで表現したのは、トーマス・マンの『魔の山』にあるように、この一ヶ月が「風に吹き飛ばされるような、貧弱で空虚で重みのない」日々だった可能性があるからです。或いはあまりにも忙しくて、単調すぎたのか。いずれにせよ、反射的に口にしてしまった言葉によって、内容豊富でおもしろい毎日にはほど遠い一ヶ月だったことを自覚させられる羽目になりました。思い当たる節は、1に通知票、2に通知票、3、4がなくて、5に3期制です。2期制(前期、後期)だった前任校ではひとつもなかった1~5。あぁ😢
時間感覚についての補説。
時間感覚についての補説を含む、トーマス・マンの『魔の山』を読んだのは、アンコールワット遺跡群で知られるカンボジアのシェムリアップに滞在していたときのことです。滞在といっても2週間ほどですが、短くても内容豊富でおもしろかった日々。早朝の真っ暗な時間帯にバイクタクシーのおじさんにアンコールワットまで乗せてもらって、誰もいない遺跡の近くで降ろしてもらい、ひとり、辻仁成さんの『太陽待ち』よろしく太陽を待つ。そんな毎日です。手には分厚い『魔の山』の上下巻。贅沢というか、危険かもしれないからアホというか。とにかくそういった数日を送りながら、主人公のハンス・カストルプとともに『魔の山』を登り続けました。
登っている途中で出会ったのが「時間感覚についての補説」です。《知らない土地へやってきた当初は時間が長く感じられる》という文章に要約されるこの補説。学級に適用すれば、多くの教員がもっているであろう「4月はなかなか時間が進まなかったのに、12月のこの時期になるとあっという間に時間が過ぎていく」感覚についての補説といえます。だから秋に行われる学芸会前までの漢字を「遅」とすれば、学芸会後は「速」或いは「早」となります。もちろん、学級がうまく回っていなかったら、事件が増えていって、ずっと「遅」のままですが。
そうそう、今年の漢字は「令」でしたね。クラスにいる漢字好きの男の子が朝からずっとソワソワしていました。
「先生はどう思いますか?」
「髭」
惜しくもなく外れた私の「髭ダン(Official髭男dism)」予想はさておき、友達や他の先生にも訊きまくっていた彼にとっての今日は、きっと内容豊富でおもしろく、あっという間に過ぎていった1日だったはず。
1時間や1日をベースにしているのが子供。
1ヶ月や1年もベースにしているのが大人。
子供は、1時間や1日をベースとしているため、大人と違って「楽しい=Speedy」「楽しくない=Slowly」という時間感覚が強い。一方、1時間や1日だけでなく、1ヶ月や1年もベースにしている私たち大人は、「楽しい=Speedy」「楽しくない=Slowly」という時間感覚だけでなく、「楽しい=Slowly」「楽しくない=speedy」という時間感覚ももっている。そして間違いなく、年齢を重ねれば重ねるほど、後者の感覚が強くなっていきます。
「もう回ってきたの?」
冒頭のそれは「楽しくない=speedy」という時間感覚から来ているものだろうなぁと、思います。やれやれ。
忙しすぎると、毎日が単調になり、楽しくなくなっていきます。学級がそれなりにうまく回っているからこそ「速」或いは「早」と感じているという見方もできますが、ゆとりをもち、生活習慣を意識的に変えていかない限り、時間の流れに幅や厚さ、重みを与え、「楽しい=Slowly」と感じられる生き方をすることはできません。
やはり働き方改革、すなわち生き方改革が必要だなぁと思った「もう回ってきたの?」に続く、忙しすぎて楽しめていないという「自覚」でした。
23時15分、もうこんな時間なの?