田舎教師ときどき都会教師

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沢木耕太郎 著『危機の宰相』より。現代の「危機の宰相」はグッド・ルーザーになれるのか。

 その年の六月を境にして変化したのは私だけではなかった。日本の社会全体が大きく変わっていったという印象がある。潮が引くように何かが去っていったという感じを受けていたのだ。
 どうして変わってしまったのか。それについて、やがて私はぼんやりとしたイメージを持つことになった。状況を劇的に変化させたのは経済の高度成長であったのだろうと。そして、それをもたらすことになったのが池田内閣の所得倍増政策であり、それを支えたのがブレーンの下村治なのであろうと。
(沢木耕太郎『危機の宰相』魁星出版、2006)

 

 おはようございます。大方の予想通り、オリンピックが延期になりましたね。日本の社会全体というより、世界全体が大きく変わっていく印象があります。子どもたちもそのように感じているのではないでしょうか。東京オリンピックを4年後に控えた1960年、当時中学1年生だった沢木耕太郎さんがその年の「安保闘争」を境に《はっきりと社会的なものに覚醒した》ように、政治と生活がダイレクトにつながっている2020年の「コロナ闘争」を境に、子どもたちが社会的なものに目覚めてくれるといいなと思います。社会に関心のない大人が現在の「危機の宰相」を生んだといっても過言ではないですから。

 

危機の宰相 (文春文庫)

危機の宰相 (文春文庫)

 

 

 宰相というのは内閣総理大臣のことです。現在の宰相は安倍晋三であり、沢木さんの描いた宰相は第58~60代内閣総理大臣を務めた池田勇人です(沢木さん以外 all 敬称略)。二人の宰相に共通するキーワードは「オリンピック」と「危機」です。

 

 安保闘争に端を発する危機(1960年)。
 感染拡大に端を発する危機(2020年)。

 

 池田勇人元首相はどのようにして危機を乗り越えることができたのか。1960年と同じか、或いはそれ以上の危機に瀕している2020年の現在、オリンピックという共通項を考えると、沢木さんの書いた『危機の宰相』が示唆することは大きいと感じます。

 

 やがて、私は「所得倍増」という言葉をめぐる池田勇人と下村治と田村敏雄の三人の人生を描いてみようと思うようになった。

 

 沢木さんがそう思うようになったのは、所得倍増という言葉に命を吹き込み、日本の社会全体を大きく変えた「三人」と彼らの結びつきに強く惹かれたからです。特に、実際に会って取材を重ねた経済学者の下村治には、特別な感情を抱いていたように読めます。社会に目を向けるきっかけとなった安保闘争や、その闘争状況を劇的に変えることになった所得倍増という政策への関心から生まれた、下村治との出会い。

 

 結局、人。やっぱり、生き方。

 

 池田下村田村の三人には、沢木さんの嗜好にぴったり合う共通点がありました。それは三人とも「敗者性」をもっていたということです。簡単にいえば、順風満帆な人生を送っていたわけではないということです。『敗れざる者たち』を書いた沢木さんが惹かれるのも当然かもしれません。

 

 敗者としての池田勇人。
 敗者としての田村敏雄。
 敗者としての下村治。

 

 大蔵官僚だった三人の「敗者性」を、沢木さんはそれぞれひとつの章を割いて克明に描き出しています。

 落葉性天疱瘡という「世界に三人とか」と形容される奇病にかかり、5年間もがき苦しんだ池田勇人。満州国の官僚として大いなる夢を追うも、すべてはみはてぬ夢となり、ソ連の捕虜として5年間の抑留を余儀なくされた田村敏雄。激務とその真面目さゆえにたびたび体を壊し、疎開先で3年間の闘病生活を送った下村治。

 病気や抑留によって官僚の出世レースから脱落した三人でしたが、《やがて、奇病と闘い、捕虜生活に苦しみ、死病に苦しんだはずの三人が、誰よりも「楽観的」に、日本経済は成長し、日本国民は豊かになるのだ、と声を上げるために巡り会うこと》になります。そして、死と隣り合わだった過去から生まれた底抜けのオプティミズムによって、政治の危機を乗り越え、大逆転のホームランを放ちます。

 

 所得倍増政策に基づく高度経済成長です。

 

 池田の「勘」と下村の「理論」を田村が結びつけ、底抜けのオプティミズムによって所得倍増という夢のような話を実現させた、もと敗者たち。沢木さんは吉田茂の言葉を引用して、この3人を「グッド・ルーザー」、すなわち「よき敗者」たちと呼びます。

 

 よき敗者は、退き際もわきまえています。

 

 池田勇人が総理大臣になったときに、秘書官の大平正芳が、池田に対して「とうとうあなたも総裁になられましたね」と述べ、その後に「長期政権という言葉を絶対の禁句にしていただきたい」とお願いをする場面があります。

 

 すると、池田はうなずいて応えた。
「そのとおりだ」
 と。
 この日、妻の満枝も同じようなことをいっている。
「終わりが大事ですよ」
 十月十日は東京オリンピックの開会式が国立競技場で行われた。池田は、この総理大臣としての最後の晴れ舞台に、病院側の配慮で出席することができた。

 

 さて、現代の「危機の宰相」は、新型コロナウイルスによる感染拡大の危機を、どのように乗り越えようとしているのでしょうか。下村治のようなブレーンはいるのでしょうか。臨時休校で自宅にひきこもっている子どもたちも、きっと、興味・関心をもって見ています。

 

 グッド・ウィナーになるのか。
 グッド・ルーザーになるのか。

 

 状況を考えるに、ウィナーの未来はもうないような気がします。だからせめてバッド・ルーザーにはならないでほしい。

 

 切にそう願います。

 

 

敗れざる者たち (文春文庫)

敗れざる者たち (文春文庫)