田舎教師ときどき都会教師

テーマは「小学校教員の働き方と生き方」&「本、旅、人」

坂口恭平さんの『まとまらない人』を読む。まとまらなくて、いい。

 「好きなものがわからない」とかも言うんだよね。でも「赤と青どっちが好き?」って聞けば「青」とかはっきり答えるからね。それなんだけど、好きなものって。なんで、でっかい、自分の人生を、すべて背負うようなものを、考えちゃうの? 青と赤、体動かすのと机の上でちょっと事務仕事、散歩と読書……それならわかるでしょ、簡単でしょ。好きなことって、そういうこと。気持ちがいいほうを選ぶってこと。
(坂口恭平『まとまらない人』リトルモア、2019)

 

 気持ちがいいほうを選ぶとか、やりたくないことはしないとか、そういった動物の本能として「当たり前」とでもいうべきことができなくなるのは、教育に因るところが大きいのだろうなぁと思います。数日前にブログで取り上げた、磯野真穂さんの『ダイエット幻想』でいうところの「きちんとした社会人でありたい」幻想の下地を、小中学校でつくっている可能性が高いって、そう感じます。

 

 みんな同じで、みんないい。

 

「みんな違って、みんないい」が徹底されていないことは、北海道から沖縄まで、3年生以上のほとんど全ての小学校の教室に習字の作品が掲示されていることからもわかります。例えば、4年生だったら、この時期は「雲」という字がズラッとならんでます。公立の小学校だけでも19432校(令和元年)。教室の数でいったらその何倍もの数があるのに。数万、或いは十数万単位で掲示物までそろえ、まとめようとする国。そんな国、他にあるのでしょうか。

 

「先生、何だか雲がいっぱい出てきて、今にも雨が降ってきそうですね」。

 

 わたしが授業中にせっせと掲示していたら、本物の雲にひっかけて、おもしろいことを言ってきた子がいました。佳話です。

 それはさておき、書きたい気分ではありませんとか、僕は雲ではなくて雪がいいですとか、或いは蜘蛛がいいですとか、そういった「気持ちがいいほうを選ぶ」や「好きなものを選ぶ」という選択肢は、現場ではふつう、イメージされていません。小学校には、岩瀬直樹さんや苫野一徳さんいうところの「みんなで同じことを、同じペースで、同じようなやり方で学ぶ」幻想があるからです。

 

「みんな同じだ」幻想。

 

 この小中学校の先生たちが抱いている幻想が、大人になったときの「(みんなと同じような)きちんとした社会人でありたい」幻想につながっているのではないか。そして行き着く先が、英語圏でも通用する言葉となってしまった「過労死(karoshi)」という悲劇なのではないか。つまり過労死や「好きなものがわからない」という遠因をつくっているのは、小学校や中学校の先生たちなのではないか。その先生たちが過労死寸前というのは、もしかしたら因果応報なのではないか。

 

「同じ」や「きちんと」だけではなく、「違う」や「まとまらない」も大切にすればいいのに。

 

 

 似たような話を以前にも書いたことを思い出しました。紋切型社会ならぬ、紋切型ブログだ、これじゃ。まっ、いいや。出発点と経路が違うので、続けます。ゴールは、諸悪の根源は小学校にあり。だから「変わらなきゃ」&「まとまらないをよしとしなきゃ」です。

 

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闘鶏に興じる男たち、ベトナムのニャチャンにて(01)

 

 2週間前の日曜日に青山ブックセンターに足を運んで、坂口恭平さんの話を聞きに行きました。そのときの話はその翌日のブログに書きましたが、書き切れなかったことをもうひとつ。

 

 

 書き切れなかったのは、坂口さんが飼育係(小学生)だったときの話です。闘鶏に出場するニワトリではなく、寂しいと死んでしまうウサギの世話をする係だったという坂口少年。実際のところ「寂しい」という理由で死んでしまうウサギはいないそうですが、坂口少年はその都市伝説を知ってか知らずか、ウサギにえさをやるよりも、小屋の中でウサギと一緒に戯れるほうが自分もウサギも「気持ちがいい」と思ったようで、ウサギと同じ目の高さになるように地面に横たわって遊んだ、とのこと。そしてそんな坂口少年に好意を寄せる女の子がいた、とのこと。

 

 これまた佳話です。

 

 しかし、もしもわたしが坂口少年の担任で、過労のためにフラフラだったとしたら、そのウサギ小屋の前を通りかかった瞬間に坂口少年を注意しているかもしれません。少なくとも、その女の子のように、好意的にその光景を受け止めることはできなかっただろうなと思います。

 

 えっと、そこで何をやっているんだ坂口くん💢
 洋服についた土を教室に持ってこないように💢

 

 一緒になって寝っ転がればいいのに、肉体的かつ精神的な余裕のなさが生み出す塩対応です。そんなふうにして、普段も子どもたちから「気持ちがいい」を選択する力やその力をつけるための機会を奪っているのかもしれません。反省です。もしかしたら未来の坂口くんがいるかもしれないのに。

 

 パニック障害、発達障害、不安障害って言う人、全員に聞くのが、何かやりたくないことやってないよね?ってこと。

 

 この土日、本当は通知表の所見を書かなければいけないのに、やりたくないからやっていないわたし。それでもどこかで無理をして期日までに(おそらく)仕上げてしまうのは、きっと「きちんとした社会人でありたい」幻想にとらわれているからです。本当の意味での「きちんとした社会人」であれば、与えられた時間内には絶対に終わらない業務を振られていることに「きちんと」怒らなければいけないところなのですが。

 

 仕事よりも、闘鶏。
 好きな方を、選ぶ。

 

 闘鶏を見ていたベトナムの人たちにはできていたこと。それは、気持ちにしたがうということ。そして、まとまらなくていいということ。

 

 簡単でしょ。