田舎教師ときどき都会教師

テーマは「初等教育、読書、映画、旅行」

國分功一郎、古市憲寿 著『社会の抜け道』より。現役高校教師、斉藤ひでみさんに続こう。

古市 哲学的には「遊び」って何なんですか。退屈とはどう違うんだろう。
國分 うまく遊べないときに、人は退屈する。だから、うまく遊べなかったり、楽しめなかったりすると、人は外から仕事や課題を与えられることを求めるようになる。自ら自由を捨てて、何かに従いたくなる。人間が従属へと向かう契機の一つには、自分で楽しめないということがあると思う。自分で楽しめないと退屈してしまうから、外から仕事を与えられたほうが楽だという気持ちになるんだよ。だから俺は、人はきちんと遊べるようになる必要があると思っている。小さいときからとにかく遊ぶことが大切だと思うね。それができてないと、隷従したがる人間ができ上ってしまう。
古市 近代人はうまく遊べないから仕事をするんですね。
(國分功一郎、古市憲寿『社会の抜け道』小学館、2013)

 

 こんばんは。昨日、10月27日(日)の毎日新聞に掲載された「斉藤ひでみ」こと「西村祐二」さんの記事を読みました。1面に出ていた見出しは「現役教師  働き方問う」で、内容はといえば、「やっぱりなぁ~」と思えるものでした。

 

 結局、人。やっぱり、生き方。

 

 何が「やっぱり」なのかというと、西村さんが給特法改正を訴えたから変形労働時間制という改悪が検討されてしまった(!)という、真偽不明の「やっぱり」そうなのか(?)or「やっぱり」違うのか(?)ではなく、やっぱり「うまく遊べる人」だったという「やっぱり」です。

 大学を卒業した後に役者を目指して上京した、とか、なけなしの金をはたいて演劇修業のためニューヨークやパリに行った、とか、自分で脚本を書いた自主制作映画を映画祭に応募した、とか。たった一度の人生を、西村さんはめちゃくちゃうまく遊んでいるし、めちゃくちゃうまく楽しんでいます。それこそ「主体的・対話的に深く」生きている。

 

「8時間で帰れる職場」訴え。

 

 そりゃ、そう訴えたくなりますよ、自分で楽しめる人は。だって世の中には楽しいことがたくさんありますから。読みたい本もたくさんあるし、行きたいところもたくさんある。会いたい人もたくさんいるし、やりたいことだってたくさんある。我が子と過ごす時間はかけがえのないものだし、くまのプーさんじゃないですが、「何もしないをする」時間だってかけがえのないものです。そしてその「自分で楽しんだこと」を教室に、授業に、学校経営に還元する。

 

 学校がヤバイではなく、世界がオモシロイから僕らは帰る。

 

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Splendid Valley English School、ネパールにて(00)

 
 世界のおもしろさを子どもたちに伝えたい。だからこそ世界のおもしろさを味わいたい。そう思っているのに、定時で退勤するようになると、こんな言葉をかけられるようになります。

  

 そんなに早く帰って何するの?

 

 もう何度言われたか分かりません、この言葉。悪意はないのかもしれませんが、けっこうダメージを受けます。この言葉に違和感を覚える教員がマジョリティーにならない限り、働き方改革は「笛吹けど踊らず」で進まないと思うからです。

 そんなに早く帰って何するの(?)とナチュラルに口にする教員は、学校の仕事以外にそれほどやりたいことがないんです、きっと。だから、やろうと思えばいくらでも仕事をつくることのできる学校に、それこそ21時や22時くらいまで平気で残っているんです、きっと。國分さんの言葉を借りれば、そのほうが楽だという気持ちになっているんです、きっと。或いは『残業学』で知られる中原淳さん言うところの、残業が60時間(/月)を超えると幸福感が上がるという「残業麻痺」に陥っているんです、きっと。

 

 教員はうまく遊べないから仕事をするんです。

 

 だから働き方改革を進めようと思ったら(過労死レベルで働いている教員を減らそうと思ったら)、管理職は、西村さんのように「うまく遊べる」人の意見に耳を傾けた方がいい。教育委員会は、西村さんのように「うまく遊べる」人を教員として雇ったほうがいい。教育先進国と呼ばれるフィンランドでは、二足の草鞋を履いている教員(=うまく遊べる教員)が歓迎されると聞きます。教員の魅力ある生き方は、魅力ある授業の在り方につながっている。そういうことだと思います。

 

 最後にもう一度。

 

 学校がヤバイではなく、世界がオモシロイから僕らは(定時に)帰る。