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西田亮介 著『コロナ危機の社会学』より。保護者の不安のマネジメントって、大事。

 既知のとおり、コストカットとムダ取り、支出削減は日本社会の至上命題であり続けている。それは公務員についてもいえ、人口当たりの公務員数はすでに世界最低水準になり、業務は増大であるにもかかわらず強い削減圧力とバッシングが続いている。こうしたトレンドの一方で、新型コロナ対策では空前の大判振る舞いをしているわけだから、まったく一貫性を欠いている。
(西田亮介『コロナ危機の社会学 感染したのはウイルスか、不安か』朝日新聞出版、2020)

 

 おはようございます。昨日、職場にいる天使のような子育て先生(♀)が「夏休み中もときどき学校に来ていた」というので理由を訊ねたところ「みんな家にいてストレスが溜まるから」と返ってきて世代も近いし参考までにと思って「旦那さんがどんなことをすればストレスが減りますか?」って訊ねたところ「何をしてもイライラする」と返ってきて堕天使っていうか人間っていうか妻と同じだなっていうか、ちょっと安心。そんな話ができたのも、昨日は2学期の初日で給食なしの午前授業だったから。普段は世間話をする余裕すらありません。教育への公的支出はOECD諸国の中で最下位であり、業務は増大であるにもかかわらず、コロナ危機においても強い「あれもしろこれもしろ」圧力とバッシングが続く学校現場です。感染したのはウイルスか、不安かと訊かれれば、それは当然、不安でしょう。担任がコロナに感染したら、バッシングどころの騒ぎではありませんからね、きっと。

 

 

 西田亮介さんの『コロナ危機の社会学 感染したのはウイルスか、不安か』を読みました。年明けから6月末までの日本のコロナ危機を分析した本で、副題のネーミングからいって、当然、不安が感染していったという話です。

 

 感染の不安から、不安の感染へ。

 

 社会に不安が感染・拡大していった結果、日本のコロナ対応はどうなったのか。結論は次のように書かれています。

 

 本書の結論は、通説とは真逆だが、政府の計画や事前の備えは一定程度合理的に理解できるものだったが、政治が主導権を取り始めるにつれて、「不安のマネジメント」に失敗し対応が場当たり的となり、根拠も効果も不明になっていったというものだ。それらは政治的決定が民意に影響されるという自由民主主義社会ならではの姿であり、いつでも繰り返されうるものともいえる。

 

 ざっくりいうと、政府の対応についての西田さんの結論は「前半はOK、でも後半はNG」。それに対して通説は「前半はNG、でも後半はOK」というもの。発生当初は「対応が遅い」だの「一斉休校に対する賛否両論」だの、さまざまなことが言われていましたが、6月末の時点ではコロナの抑え込みにある程度成功したかのように見えましたからね、日本は。だから一見すると、日本は「前半はNG、でも後半はOK」で、終わりよければ全てよしの優等生のように映った。

 しかし実際は「前半はOK、でも後半はNG」という西田さんの見立てが正しかった。そのことはこの本が出版されてから後の「日本は今、新型コロナウイルスの感染拡大の第2波のまっただ中にある」(By 感染症学会理事長の舘田一博さん、8月19日)という現実が証明しています。後半こそがNGだった。では、なぜOKだったものがNGに変わっていったのか。答えは、

 

 不安が感染したら。

 

 引用にある《「不安のマネジメント」に失敗し対応が場当たり的となり》というのは、アベノマスクや10万円の給付金など、根拠と効果の不明な「大胆な決定」「大胆な政策」が連発されるようになったことを指します。なぜそうなったのかといえば、それは「前半はNG」を打ち消すために、国民の声に耳を傾けすぎたからです。冷静になって分析すれば、本当は「前半はOK」だったことがわかるのに。だから政府は言葉を尽くして不安を沈めればよかったのに。

 このメカニズムは学級経営に似ています。保護者の不安のマネジメントに失敗すると、クラスは悪循環に陥って、どんどん崩れていくからです。政府は国民の不安に、担任は保護者の不安に、どのように向き合っていくべきか。

 

 不安のマネジメント。

 

 昔、ベテランの先生が次のようなことを話していました。その先生が力を入れてつくっていた学級通信の効果というか目的を訊ねたときの話です。曰く「教室ってブラックボックスになりやすくて、そうすると例えば子ども同士のトラブルなんかがあったときに、一部の保護者は勝手なことを想像して不安になってしまう。最近だとその不安を携帯で拡散したりするからたちが悪い。だから保護者が不安にならないように、学級通信に子どもの生の声(短作文など)をたくさん載せて教室の様子が透けて見えるようにしている。見えないと人は不安になるから。もちろんその載せる声はポジティブなものにして、さらに担任が子どもたちの声を意味づけたり価値づけたりして、とにかく保護者が不安にならないように徹底している。そしてそれがクラスの安定につながる」云々。

 保護者が不安になって何かを訴えてくるようになると、担任も不安になってその保護者の訴えに耳を傾けるようになり、教室がおかしなことになっていきます。それはよくある話。教室がどのような状況なのか、情報をいちばんもっているのは担任なのに。 運動会や卒業式などの行事が「大胆」になって教員の労働時間がどんどん増えていくのも、不安から生じる保護者への忖度ゆえかもしれません。

 

 有事に際しては、多様な資源の組み替えや配置換えによる対応も求められる。その際には冗長性が必要だ。イノベーションの源泉も余剰と余力である。

 

 前例のない長丁場の2学期です。不安ではなく安心を感染させるようなイノベーションを起こして、不安のマネジメントを徹底していきたいものです。が、冗長性はもちろんのこと、余剰と余力なんて、ないなぁ。っていうか、いつから「保護者の不安のマネジメント」まで担任の仕事になったのだろう。そりゃぁ、

 

 何をしてもイライラする、な。

 

 行ってきます。

 

 

なぜ政治はわかりにくいのか: 社会と民主主義をとらえなおす

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