田舎教師ときどき都会教師

テーマは「初等教育、読書、映画、旅行」

村上龍 著『賢者は幸福ではなく信頼を選ぶ。』より。すべての教員は消耗品である。デモシ禍によって失われた教員への信頼を取り戻す。

 今、わたしたちに必要なのは、幸福の追求ではなく、信頼の構築だと思う。外交でいえば、日本は、緊張が増す隣国と、「幸福な関係」など築く必要はない。しかし、信頼関係にあるのかどうかは、とても重要だ。幸福は、瞬間的に実感できるが、信頼を築くためには面倒で、長期にわたるコミュニケーションがなければならない。国家だけでなく、企業も、個人でも、失われているのは幸福などではなく、信頼である。
(村上龍『賢者は幸福ではなく信頼を選ぶ。』KKベストセラーズ、2013)

 

 おはようございます。やはり3月は忙しくて、月~金までブログを書くことができませんでした。臨時休校になった1年前の3月を思い出します。成績をつけたり所見を書いたり次年度の計画を立てたりしながら、毎年これだけのことを授業と平行してやっていたなんて、やはりこの仕事量はおかしい(!)って、子どもたちのいない学校で、毎日そう感じていました。だから、村上龍さんが上記に引用した本の中に《両親が教師だったので、わたしは祖父母に面倒を見てもらいながら育った》と書いているのも頷けます。昔も今も、教員夫婦は我が子の面倒すら見ることができない!

 問題。以下の例文の中で「ので」の使い方がおかしいのはどれでしょう。簡単なので、正解は書きません。

 

 ① 辛い物を食べたので、のどが渇いた。
 ② 朝が早かったので、ついうとうとする。
 ③ 盆地なので、夏は暑い。
 ④ 両親が教師だったので、祖父母に面倒を見てもらいながら育った。

 

 村上龍さんは1952年生まれ。

 

 でもしか先生という言葉があります。Wikipediaには《でもしか先生とは、日本各地において学校の教師が不足していた第二次大戦終結から高度経済成長期(おおむね1950年代から1970年代)に教師の採用枠が急増し、教師の志願者のほとんどが容易に就職できた時代に、他にやりたい仕事がないから「先生でもやろう」あるいは特別な技能がないから「先生にしかなれない」などといった消極的な動機から教師の職に就いた、無気力で不活発な教師に対する蔑称》とあります。現在もその影響が残っている、

 

 デモシ禍です。

 

 祖父母が面倒を見ていたということは、村上龍さんのご両親はでもしか先生ではなく、そしてでもしか先生ではない先生にとっては、半世紀以上も前から「我が子の面倒を見ることができない」くらい大変な仕事だったということでしょう。そう考えると、デモシ禍によって教員への信頼が失われたこと、そして71年に制定された給特法によって残業に歯止めがかからなくなったことが、現在の「教員採用試験の倍率は過去最低」&「精神疾患を理由に退職した教員は過去最多」という、コロナ禍と並び称される「緊急事態」の元凶といえます。緊急事態なんだから、

 

 早く帰ろうよ。

 

 

 まさに緊急事態です。我が子が中学生になる前までのファミリータイムのかけがえのなさを知っている子育て終了組&子育て後半戦組は、特によくわかるのではないでしょうか。教員は家族ではなく仕事を選ぶ。なぜならば「すべての教員は消耗品である」から。村上龍さんの人気シリーズ「すべての男は消耗品である。」(1984年~2013年)のタイトルを捩れば、そうなります。

 

 

 村上龍さんの『賢者は幸福ではなく信頼を選ぶ。』を再読しました。男性ファッション誌『Men's JOKER』に掲載されたエッセイ「すべての男は消耗品である。欲望退化篇」✕17編(2012年7月号~2013年11月号)と、書き下ろしの特別エッセイ「賢者は幸福ではなく信頼を選ぶ。」が収録された一冊です。各エッセイのタイトルが直截的でふるっています。

 

 01  寂しい人ほど笑いたがる
 02  フィデル・カストロと会ったころのこと
 03  幸福かどうかなど、どうでもいい
 04 「何でも見てやろう」と「別に、見たいものはない」
 05  反体制派なのにエリート、かつお金持ち
 06  一生これでOKというプライドと充実
 07  情熱はなかったし、今もない
 08  いくつになっても元気です、という嘘
 09  いまだに続く心の戦後
 10  フェラーリに火をつけろ
 11 「アベノミクス」という甘いお菓子
 12  対立に慣れていないとケンカに負ける
 13  ブラック企業 VS「金の卵」
 14  父の葬儀の夜に
 15  4周遅れで置き去りに
 16  わたしもワーカホリックだった
 17  世の中は敗者であふれかえる

 特別エッセイ 賢者は幸福ではなく信頼を選ぶ。

 

 情熱はなかったし、今もないと謳っているのに、ハバナでフィデル・カストロに会って《こいつはいったい誰なんだ、という表情でわたしを見た》とサラッと書いているところが、冷静と情熱のあいだではなくそれらを止揚したところにいる村上龍さんらしくて、よい。まぁ、要するにワーカホリックだったのでしょう。ちなみにフィデル・カストロは、村上龍さんの目の前で次のような演説をしたそうです。

 

「昨年、革命後はじめてヨーロッパを訪ねた。ローマ法王にもお会いし、さまざなま文化遺跡を見た。~中略~。革命家が世に残すものは人である。革命によって、公正と自由を得て、幸福を手に入れた人々を残すために、わたしは今でも、これからも戦い続ける」

 

 教師が世に残すものは人である。教育によって、公正と自由を得て、幸福を手に入れた人々を残すために、わたしは今でも、これからも戦い続ける。

 

 教育 ≒ 革命

 

 そのように考えると、教育者であるご両親が戦い続けた結果、高校の屋上をバリケード封鎖して警察に逮捕されるような、革命家気質の息子が育ったという因果関係にも納得がいきます。祖父母に面倒を見てもらいつつも、大事なところはご両親の手によって育てられたのでしょう。教員の社会的地位がまだ高かった時代、熱心な教員夫婦にもそれくらいのゆとりはあったということです。今はないなぁ。

 高校から処分が言い渡されるという朝、村上龍さんの父親はこう言ったそうです。

 

「おどおどするなよ。校長から目をそらすな。お前は、殺人を犯したわけでもないし、かっぱらいをしたわけでもない。堂々と処分を受けてこい。『アルジェの戦い』のアリを思い出せ」

 

  「14  父の葬儀の夜に」より。でもしか先生には言えない台詞です。こういう先生が大勢を占め続けていたら、教員が保護者の信頼を失うこともなかっただろうに。ちなみに母親についてはこちらを是非。

 

www.countryteacher.tokyo

 

 昨日は保護者会でした。3月の保護者会には、子どもたちを介した長期にわたるコミュニケーションの結果が、雰囲気として現われます。消費者感覚が増す保護者と、「幸福な関係」など築く必要はありませんが、信頼関係にあるのかどうかは、とても重要です。保護者との信頼関係さえあれば、子どもはどうにかなりますから。

 

 先生はえらい。

 

 村上龍さんのご両親が教員になったころ、すなわち教員が消耗品ではなかった時代は、内田樹さん言うところの「先生はえらい」が前提だった。しかし、デモシ禍と給特法によって、その前提はなくなってしまった。だからこの土曜日も明日の日曜日も、信頼を取り戻すべく「失われた時を求めて」働かなければならない。

 

 嗚呼。

 

 我が子と一緒に『アルジェの戦い』でも観たいところですが、通知表の所見をがんばります。

 

 

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