「お早う、お父さん」
父親はちらりと顔を上げて息子に視線を送ってから、深々とため息をついた。昨日は王様も恥ずかしさのためかずっと城に引きこもっていたようだが、このまま事態が収束するとはとても思えない。誰が最初に「王様は裸だ」と言いだしたのかと、きっとこれから大騒ぎになるだろう。王様の権威は絶大だ。自分と息子は引き立てられて、処刑されたとしても不思議はない。
「どうしたの、お父さん?」
息子はもう一度言う。どうしたのじゃないだろう、お前は自分が昨日何をしたかわかっていないのかと言いかけて、父親は口を閉ざす。そんなことを言っても、おそらくこの子には伝わらない。昔からそうだった。
(森達也『王様は裸だと言った子供はその後どうなったか』集英社新書、2007)
こんばんは。昨年のちょうど今頃でしょうか。同じ職場の先生(♀)が入籍し、そのことが発表されたときに「えっ、そうなの?」って、おそらくは職員室でただひとり驚いていたのは私です。危ない危ない。危うく口説くところだった。嘘。似たような話を森達也さんが『王様は裸だと言った子供はその後どうなったか』に書いています。曰く《高校1年の3学期、学級委員の石田君と副委員長の山口さんが肩を並べて一緒に帰る後姿を眺めながら、「あいつら仲いいなあ」とつぶやいたら、「今ごろ何を言っているんだ」とクラスメートたちに呆れられた》云々。
致命的に場を読めない。
程度の差こそあれ、おそらく私もそのうちのひとりです。でも、そういった人たちって、必要ですよね。だって「えっ、B29に竹槍で立ち向かうんですか」とか、「えっ、いま休憩時間なのになんで会議が入っているんですか」とか、「えっ、王様はこれからお風呂ですか」とか、もっと大勢の人がその疑問を口にしていたら、日本は原爆を落とされずに済んだかもしれないし、教員の休憩時間が全国平均で1分(小学校)しかないなんてこともなかったかもしれないし、逮捕されても仕方のないような王様に国を牛耳られることもなかったかもしれませんから。
KYは世界を救う。
もしも森達也さんが空気を読む力に長けていたら、或いは同調圧力に敏感だったら、オウム真理教信者達の日常を追ったドキュメンタリー映画『A』は撮れなかったはず。私の大好きな社会学者の宮台真司さんも共著者として名前を連ねている『麻原死刑でOKか?』だって、書けなかったはず。王様は裸だ(!)って、世界が完全に思考停止する前に言わなきゃいけないって、その子供が使命感と責任感にかられて叫んだわけではもちろんないものの、王様への強烈なフィードバックで権力者の思考を活性化させたという意味では、KYは世界を救ったといえるのではないでしょうか。
ちなみに王様は裸だと言った子供は、教員の感覚からすると、KYはもちろんのこと、おそらくは「発達障害の疑い有り」でしょう。換言すると、ユニークな子。発達していないのではなく、発達しすぎている、個性爆発の子。その言動がユニークすぎる余り、或いはときおり爆発する余り、あなたはいま自分が何をしたかわかっていないのかと言いかけて、担任は口を閉ざすといった、そういった場面が全国の教室で繰り広げられているのではないでしょうか。ほとんどの場合、注意しても仕方ありませんからね。
発達障害といっても、そのユニークさの現れは環境によりけりだし、それこそ十人十色です。とはいえ、この子供のお父さんは大変だろうなぁ。《そんなことを言っても、おそらくこの子には伝わらない。昔からそうだった》って、いろいろと試した過去が想起されるからです。でも、もしかしたら「その後」の展開によっては救われるかもしれません。エジソンもジョブズも黒柳徹子さんも発達障害だったと言われています。王様は裸だと言った子供だって、もしかしたら……。
森達也さんの『王様は裸だと言った子供はその後どうなったか』を再読しました。タイトルからしていいですよね。クラスの子どもたちに読み聞かせて、さて、この子供はその後どうなったと思いますか、物語の続きをつくってみましょう、っていう授業もおもしろいかもしれません。今度、やってみようかなぁ。
裸の王様以外にも、桃太郎や赤ずきんちゃん、美女と野獣やみにくいあひるのこ、幸福の王子など、古今東西の物語が「タブーに挑戦する男」という異名をもつ森さんの手によって巧みにパロディー化されています。ちなみに表題作の「王様は裸だと言った子供はその後どうなったか」といえば、その子供は「瞬間的には世界を救った」けれど、でも「その救いは持続しなかった」というアンハッピーな未来が描かれています。お父さん、可哀想に。
「幸福の王子」が、すこぶるいい。
いわずと知れたオスカー・ワイルドの名作です。Wikipedia には《町の中心部に高く聳え立つ自我を持った王子像が、あちこちを飛び回って様々な話をしてくれるツバメと共に、苦労や悲しみの中にある人々のために博愛の心で自分の持っている宝石や自分の体を覆っている金箔を分け与えていくという自己犠牲の物語。最後は、宝石もなくなり金箔の剥がれたみすぼらしい姿になった王子と、南に渡っていく時期を逃して寒さに凍え死んだツバメが残る。皮肉と哀愁を秘めた象徴性の高い作品》とあります。
皮肉っていうところがポイント。教育現場に例えれば、自我を持った王子像 = 残業麻痺に陥っているカリスマ(?)教員やBDK(部活大好き教員)に代表されるような先生たちで、死んでしまったツバメ = 定時退勤を目指している教員です。私は後者。森達也さんの描くツバメの台詞がふるっています。
「そりゃあ、あなたは気分がいいでしょう。でも僕の身にもなってください。このままではエジプトに渡れなくなる。僕にとっては死活問題です。いいですか。つばめは低温に弱いのです。それに・・・・・・。」
パラフレーズするとこうなります。「でも私の身にもなってください。このままでは家庭が犠牲になる。家族にとっては死活問題です。いいですか。共働きの子育て世帯は長時間労働に弱いのです。それに・・・・・・」。
「気分がいいって私のことか?」
幸福の王子はツバメにそう言います。続けて曰く《なぜ私が気分がいいのだ? こうして剣の飾りだけではなく、目玉まで貧しい人のために犠牲にしているというのに》云々。小学校にも中学校にもそういった先生がいます。かつての私もそうだったかもしれません。だから森達也さんの次のまとめがめちゃくちゃ刺さります。
自己犠牲は難しい。陶酔と相性がいいからだ。
この言葉、全国の小中学校の職員室に掲示したいところです。あなたの自己犠牲が、善良なツバメを殺します。
学校はもっと豊かだし、人はもっと優しい。
学校が完全に思考停止する前に。