田舎教師ときどき都会教師

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宮台真司 著『「消えた老人」はなぜ生まれるのか』より。家族がいれば、仲間がいれば、老人は消えなくなる。

 しかも、こうした事件が起こる度に、日本では行政の不手際が指弾されるということになっているのですが、これもちょっと国際標準的にはあり得ないことですよね。
 それよりも、近隣の超高齢者が不在であることに気がつかない、そういう隣人たちから成る社会、あるいは地域社会がおかしくはないのか。あるいは、乳幼児虐待を放置するような地域社会はおかしくはないのか。おかしな事態をめぐる日本の報道や議論には、そういう論点が抜けておりまして、ぼくの見る限りでは、そうした論点はむしろ海外のメディアが繰り返し指摘してきています。つまり、日本人自身が腐っているのではないか、という疑惑が生じているわけです。
(宮台真司 著『「消えた老人」はなぜ生まれるのか』東京市政調査会、2011)

 

 こんにちは。昨日のブログを宮台真司さんにリツイートしていただき、さらにそれを野坂昭如さんがリツイートしてくださいました。お~、野坂さんだぁ。ホタルの墓だぁ。フォロワー60万だぁ。あれ、でももう亡くなっているのではと思ってよく見てみたら野坂尚如さんでした。誰だろう。

 

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 誰だろう。

 

 教員1年目のときの話。学校は岩手県と宮城県の県境にありました。でも、乗っていたのは多摩ナンバーの車。緊急事態宣言の出されている今だったら白い目で見られたかもしれません。当時はもちろんそんなことはなく。でも田舎だと目立つんですよね。家庭訪問でクラスの子の家に行ったときに、「多摩ナンバーの車に乗った若い男が入っていったから、誰だろうと気になった」という理由で、近所のおじさんが飛び込んできたことがありました。平和な地域だなぁ。みんな顔の見える範囲で生活していて、そこには「消えた老人」という概念の暗示すらありませんでした。

 

 

 宮台真司さんの基調講演(東京市政調査会『都市問題』公開講座、2011.6.11)を収めた『「消えた老人」はなぜ生まれるのか』を再読しました。消えた老人というのは怪談ではなく、生きているはずの老人が白骨遺体で発見されるという、9年前に東京都足立区で起きた事件をきっかけにクローズアップされた問題です。基調講演のタイトルは「共同体空洞化の自覚なく、死が異様な形をとる日本」。宮台さんの問いかけはこうなります。

 

 日本の社会はなぜ、消えた老人を生み出すのか。

 

 最初の話につなげて端的に言えば、「誰だろう」と気にかけてくれる隣人がいなくなってしまったことが原因です。共同体の空洞化ってやつです。その空洞化の自覚が、ない。自覚なきところに手立てなし。手立てを講じないから、共同体の空洞化はどんどん進んでいきます。日本の社会は「消えた老人」を生み出し続けることに。

 宮台さんは、葬式を出さないケースが増えていることを例に、ことの深刻さを説明しています。日本の社会は《どんなに共同体から省かれた存在であっても、葬式だけは助けてやろうという共同体だった》のに、今ではその葬式さえ出さなくなっている。葬儀屋が言うには98年くらいからそういう状況が深刻化しているとのこと。

 弁護士をしている友人が同じようなことを話していました。土地や家をもっている人が亡くなったときに、相続する親族がいないと、それらの資産は競売にかけられることになる。そういった仕事がここ数年確実に増えている。どろどろの不倫問題とか、老人の無縁死とか、俺の仕事はそんなのばっかり。10年くらい前の話です。

 

 つまり、1998年以前までは、経済が回ることでかろうじて社会の穴が埋め合わせれていたのですが、経済が回らなくなった途端に社会の穴が露呈する。それが自殺、孤独死、無縁死云々として現れてきている。

 
 98年以前は、経済を回して社会を回す。
 98年以降は、社会を削って経済に盛る。

 

 宮台さんのよく使っている言い回しで整理すると、そういう流れです。学校でいうと「学級を削って授業を回す」に近いでしょうか。不登校や落ちこぼれが多発するパターンです。

 

 マスコミを見ますと、また例によって行政に対する批判が行われているわけです。しかし、行政は平時を前提にしたシステムなのです。従って、災害が起きた場合の末端のディストリビューションは、基本的には共同体か市民社会が行うわけです。

 

 コロナが流行し、緊急事態宣言が出されている今は、東北の震災のときと同じように《災害が起きた場合の末端のディストリビューションは、基本的には共同体か市民社会が行う》状況に当たるでしょうか。学校は平時を前提にしたシステムです。だから課題が多いだの課題が少ないだの、学校は何をやっているだの、まぁそういうことは言わずに、地域や家庭が起点となって、オンラインで子どもを含めた交流会を行ったり、Zoomで自発的な学習会を立ち上げたり、そういったディストリビューションを考えてほしい。昨日のブログにも書きましたが、勤務校の「おやじの会」がそういったことを回し始めていて、いい展開だなぁと思っています。

『「消えた老人」はなぜ生まれるのか」』の後半に、宮台さんの基調講演を受けて行われたパネルディスカッション(河合克義、清原慶子、寺田美恵子、真鍋弘樹、新藤宗幸)の様子が収録されています。そこに次のようにあります。もと三鷹市長の清原慶子さんの発言です。

 

 おやじの会のメンバーになっているある父親が言っていたのですが、「子どものためにおやじも何かしたい、と思って集まったんだけれども、実は自分自身の交友関係をつくる会でもあった」と。20代、30代の父親たちが、子どもたちのために活動した後に、それぞれ肩書きを捨てて、飲んだり、バンドをつくったりというようなことをしていて、「市長、気がついたら実は定年退職後のライフプランを考えて、いまやっているのかもしれない。建前は子どものためなんだけれども、実際は自分のためかもしれない」と本音で話してくれる人もいました。 

 

 地域を削って、学校に盛る → 学校を削って、地域を回す。
 家庭を削って、学校に盛る → 学校を削って、家庭を回す。

 

 コロナ禍を転じて福となす。盛りに盛った学校の業務をこの機会に精選することが、地域や家庭を回すことにつながる。そう信じたいものです。宮台さんの本にもよく登場するもと文部官僚の寺脇研さんも、学校ではなく、家庭や地域に向けて「子どもたちをよろしく」って言っていますから。

 

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 先日、4月の自殺者数が大幅に減ったというニュースが流れていました。経済よりも社会、学校よりも家庭が大事という「自覚」につながればいいなぁと思います。

 

 家族がいれば乗り越えられる。
 仲間がいれば乗り越えられる。
 

 老人も、消えなくなる。

 

 

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