田舎教師ときどき都会教師

テーマは「初等教育、読書、旅行、映画」

宮台真司 著『正義から享楽へ 映画は近代の幻を暴く』より。教育における直接体験や享楽はどうデザインすればよいのだろう。

 子供らが草野球するのを、野原に降り立った火星人が見ている。フィジカル(物理的・身体的)な挙動は観察できる。でも何をしているのかは分からない。分かるには子供らの体験を追体験できなければいけない。火星人はやがて「こうではないか」と思えるようになる。
 火星人は子供らに混ぜて貰い、「こうではないか」との仮説に基づき振る舞う。勘違いだらけで爆笑を買う火星人も、やがて「そうそう、できるじゃん」と言われるようになる……。これは、私が毎年の転校ごとに経験し、この十年間の子育てで観察してきた子供の経験だ。
(宮台真司『正義から享楽へ 映画は近代の幻を暴く』blueprint、2017)

 

 こんにちは。昨夜、2016年に上映された『ノーマ東京』(モーリス・デッカーズ監督作品)を観ました。ノーマというのはデンマークのコペンハーゲンにあるレストランのこと。イギリスの『レストラン・マガジン』が主催する、レストラン界のアカデミー賞ともいわれる「世界のベスト・レストラン50」で何度も1位に輝いている超有名店です。ランチもディナーも約4万円と聞けば、料理を追究していく過程にある「享楽」が伝わるのではないでしょうか。映画『ノーマ東京』は、そのノーマの創設者のひとりでカリスマ・シェフでもあるレネ・レゼピが、本店を閉じ、総勢77名のスタッフを引き連れて、期間限定で東京に店を開くというノンフィクションです。

 

nomatokyo.ayapro.ne.jp

 

映画を通じて反復する。

 

 開店前に1年以上にわたって日本各地で食材を探すという場面や、レネが「本店と同じメニューじゃ意味がない」とチームの仲間を叱責しつつ鼓舞している場面が学校でいうところの教材研究や研究授業と同じだなと思いました。映画を通じての《反復》です。レネは《常に進化しなければいけません。居心地のいい場所はあえて捨て去ります。もがき続けていくことで、時計の針を動かし、脳みそを働かせます。分からないから答えを探している。本を読み、研究し、人と話し、解決策を導き出す。そこで新たなことが起き、自分自身や世界を知るという過程が好きなのです》と言います。カッコいいφ(..) 

 

正義から享楽へ-映画は近代の幻を暴く-

正義から享楽へ-映画は近代の幻を暴く-

  • 作者:宮台真司
  • 発売日: 2016/12/27
  • メディア: 単行本
 

 

 宮台真司さんの『正義から享楽へ  映画は近代の幻を暴く』を読みました。映画批評としては、一作目の『絶望 断念 福音 映画』、二作目の『〈世界〉はそもそもデタラメである』に続く三作目に当たります。通常の映画批評と違うところは、《私は人が〈世界〉をどう体験しているか知りたくて堪らない》とあるように、どれも著者の欲望をベースとした実存批評であるということ。実存批評というのは宮台真司さんの造語で、映画を通じて監督や登場人物の〈世界〉観を知り、その〈世界〉観を通じて《表現したいことを伝える》という批評形式です。学校の授業でいうところのビブリオバトル(人を通じて本を知る。本を通じて人を知る)を想像していただければ、当たらずといえども遠からずでしょうか。

 

私は人が〈世界〉をどう体験しているか知りたくて堪らない。

 

 例えば『ノーマ東京』を観れば、主人公であるカリスマ・シェフのレネ・レゼピが、或いは監督であるモーリス・デッカーズが、社会を含めたありとあらゆる全体である〈世界〉をどう体験しているのか、そのことがパーシャルとはいえわかります。映画で表現されなければ全く知らなかった〈世界〉です。直接体験することはできなくても、間接体験を通じてその〈世界〉を垣間見ることができる。読書や映画の最大の魅力です。とはいえ、間接体験だけでは画竜点睛を欠きます。だから寺山修司は「書を捨てよ町へ出よう」という言葉を遺しています。本を読んだ上で、或いは映画を観た上で町へ出よう。そして町へ出て直接体験を得たら、本や映画に戻ってその意味をまた別の角度から考えよう。地球と火星を行ったり来たり。そういった広い意味が含まれた先人の知恵です。

 

「本を通じて社会や世界は分からない。社会や世界を知らないと本は分からない。しかし直接体験で社会や世界は分からない。本を利用するしかない」。こうしたインコンパティヴルな要素をどう両立させるかが重要で、そこに本を読む作業をうまく位置づける必要がある。ヒントは時間性です。僕の周囲を見ても、上手に本を読んでいる者ほどよく経験を蓄積しているし、経験から実りあるものを引き出す者はほどよく本を読んでいる。

 

 宮台真司さんの『宮台真司 interviews』からの引用です。本を映画に置き換えても全く問題ありません。直接体験と間接体験のタイミングやバランスが大切という話です。

 

 直接体験をどうするか。

 

 昨今の「子どもたちの学習を止めるな」という議論に欠けている、対面や集団での「直接体験」やそれに伴う「享楽」は、どのようにデザインすればよいのでしょうか。冒頭の引用でいえば「火星人が地球人に混ぜて貰う」機会を子どもたちにどのように提供すればよいのか。ノーマ東京でいえば「東京に店を開く」機会をどのように提供すればよいのか。「子どもたちの学習を止めるな」という文脈で想定されている「学習」よりも、はるかに大事なことのように思います。

 我が子も教科書を読んだり問題集を解いたりはしているものの、緊急事態宣言が出されてからというもの、直接体験や享楽のチャンスにはほとんど出逢えていません。友人曰く「我が子と一緒に自宅近くの海岸で釣りをしていたら注意された。三密でもないしソーシャル・ディスタンス的にも全く問題ないのに」云々。そういった微妙な正義はたくさん出現しているようですが、教育における直接体験や享楽の位置づけはどうなっているのでしょうか。そしてどうなっていくのでしょうか。

 

 わからぬまま、

 

 もう5月です。

 

 

宮台真司interviews

宮台真司interviews

 
書を捨てよ、町へ出よう (角川文庫)

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  • 作者:寺山 修司
  • 発売日: 2012/10/01
  • メディア: Kindle版