田舎教師ときどき都会教師

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宮台真司、永田夏来、かがりはるき 著『音楽が聴けなくなる日』より。音楽は自由にする。友達や仲間も、きっと自由にする。

 もしかすると社会はそうなりかけているのかもしれない。この文章を書いている僕や、「なるほど」と思ってくれた貴方は、極く少数なのかもしれない。であればこそ、そうした少数者が連帯して、既に人間モドキだらけになった「社会という荒野」を生きねばなりません。
 連帯して生き残れば、巻き返しのチャンスがいずれ来るかもしれない。今回の電気グルーヴの作品に関する署名の呼び掛けには、そんな意味があるように思います。急速に劣化する社会を誰もが生きていくだけでも精一杯という中で、各所に仲間がいると思えることは大切です。
(宮台真司、永田夏来、かがりはるき『音楽が聴けなくなる日』集英社新書、2020)

 

 おはようございます。行きつけの床屋さんが「こんな世の中なので」とずっと閉まっていて困ります。ご夫婦ともにロックな理髪師さんなので、こんな世の中に抗うオルタナティブな生き方を期待したいところですが、なかなかそうもいかないようです。コロナ自警団や血に飢えた正義のガーディアンがどこに潜んでいるかわかりませんからね。血に飢えた正義のガーディアンというのは、上記の『音楽が聴けなくなる日』に出てくる言葉で、宮台真司さんいうところの「人間モドキ」のことを指します。コロナ自警団と同じです。学校でいえば、落ち着かなかい子が我が子と同じクラスにいることに苛立ち、居丈高に「あいつを転校させろ」なんて言ってしまう保護者のことです。電気グルーヴの全ての音源・映像の出荷が停止になったのも、きっとそういったモドキさんたちのためでしょう。電気グルーヴのファンはもちろんのこと、薬物依存からの回復に努めるピエール瀧さんも浮かばれません。

 

 

 宮台真司さん、永田夏来さん、かがりはるきさんの『音楽が聴けなくなる日』を読みました。ミュージシャンが薬物事件で逮捕されると、そのミュージシャンの音楽まで世の中から葬り去られてしまうという、「自粛」社会ニッポンに疑問符を突きつけた一冊です。坊主憎けりゃ袈裟まで憎いとはいえ、ピエール瀧さんがつくった音楽まで憎むことはないだろう。クラスの子が悪さをしたからといって、その子の作品だけ展覧会に出さないなんてことはないだろう。そういった話です。

 社会学者の永田夏来さんによる「はじめに」と、同じく社会学者の宮台真司さんによる「おわりに」に挟まれた章立ては以下の通り。

 

 第一章 音楽が聴けなくなった日
 第二章 歴史と証言から振り返る「自粛」
 第三章 アートこそが社会の基本だ

 

第一章&第二章

 永田夏来さんが担当している第一章には、永田さんと音楽研究家のかがりはるきさんが始めた署名活動の顛末が描かれています。電気グルーヴの全ての音楽・映像の出荷停止、在庫回収、配信停止の撤回を求めた署名活動は、27日間で世界79ヵ国から6万4606人もの署名を集めたとのこと。これは予想をはるかに上回る驚きの数字だったそうです。電気グルーヴの件に限らず、この手の「自粛」はいったい何のため、誰のためのものなのか。

 かがりはるきさんが担当している第二章には、その手の「自粛」が年々厳しくなっていることが、客観的なデータによって示されています。例えば1987年に覚醒剤で逮捕された故・尾崎豊さんの場合は、ピエール瀧さんと量刑や執行猶予期間が全く同じだったにもかかわらず、逮捕の翌月に予定されていた日本武道館でのライブが中止になったくらいで、これといった自粛はなかったとのこと。では、なぜ自粛は加速し、先鋭化していったのか。

 

第三章

 第一章と第二章の問いを受けて、第三章では宮台真司さんが「自粛」社会ニッポンを生き抜く術を語っています。切り口は音楽を含めたアートです。問いに対する答えは、社会に人間モドキが増えたから。アートという営みを理解すれば、この人間モドキだらけになりかけている「社会という荒野」を生き抜くことができるかもしれない。冒頭の引用につなげれば、そういった話になります。

 

 プリアナウンスとゾーンニング。

 

 まず前提として、罪を犯したアーティストの曲を聴きたくない人は、事前に知らせてもらってブロックすればいい。それが日本を除く先進国でのスタンダードである。そのことを説明した上で、宮台さんはそれでもなお「見たくないものを見る」ことには有用性があると語ります。第一に、それが公共的態度につながり、第二に、「心に傷をつける」ことがアートの伝統的な本質だからです。

 

 見たくないものを見る。

 

 宮台さんがよく使っている言葉でいえば〈世界〉に近いでしょうか。見たくないもの ≒ 心に傷をつける「アート」 ≒〈世界〉。この〈世界〉を経由することで、社会の見方が変わり、それが公共的態度につながるというわけです。わかりやすく書けば、例えば「犯罪者の視座」を見て、知ることができれば、偏見の除去にも役立つし、自分も犯罪者になり得るという自覚をもつことができるかもしれない。それが再犯の動機を抑止できる社会づくりにつながるということです。

 

 アートの本質に迫る話をもうひとつ。

 

 纏めると、作品は「主体が作ったものではない」ので、「主体に貼られたラベルは作品と関係ない」。実際そういうことがあり得ます。であるなら、犯罪者というラベルによって作品の販売・在庫・配信を封印するような措置は、芸術の本質への理解を欠くデタラメです。

 

 作品は空中から降ってくるだけで自分は何もしていないというモーツアルトや、木の中に仁王像が埋まっていてそれを掘り出すだけだという、夏目漱石の『夢十夜』に出てくる運慶の話など、宮台さんが例として挙げるこの2つのように、作品は「主体が作ったものではない」ということを説明する逸話は枚挙にいとまがありません。宮台さんは、今回の件を奇貨として、そういったアートの理解が一般の人にも広まれば、この騒動にも意味があると書きます。

 

 アートの理解と自粛がどうつながるのか。

 

 そしてそのことが社会という荒野を生きるのにどう役立つのか。宮台さんの国語と論理の力が凄まじく、説明があまりにも美しいので、根本的な理解は実際にこの本を手にとって深めてほしいとしか書けませんが、無理矢理の着地として永田さんと電気グルーヴの石野卓球さんの言葉を引きます。

 

 このような状況で生きていくのは、なかなか大変です。でもやりようはあります。そのことをはっきりと示してくれたのは、実は電気グルーヴの石野卓球さんでした。石野卓球さんはツイッターで、次のようにつぶやきました。

 キミたちのほとんどは友達がいないから分からないと思うけど友達って大事だぜ。あと ”知り合い” と ”友達” は違うよ

 

 新刊『音楽が聴けなくなる日』の著者3人が言いたかったことの全ては、石野さんのこのツイートに含まれているような気がします。すなわち、友達や仲間をつくれない人が増えたから、コロナ自警団のような人間モドキがのさばるような世の中になってしまって、何のためなのか、誰のためなのかもわからないような「自粛」が加速し、強化していっているんだよ。音楽に限らず、教育も、そしてコロナもだよ。そういったメッセージです。

 

www.countryteacher.tokyo

 

 本の帯に坂本龍一さんが言葉を寄せています。《 ”聞かない、見ない” 権利と自由があり、同時に ”聞く、見る” 権利と自由がある》。音楽は自由にする。友達や仲間も、きっと自由にする。

 

 友達って、大事。

 

 仲間も。

 

 

文鳥・夢十夜 (新潮文庫)