田舎教師ときどき都会教師

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宮台真司、鈴木弘輝、堀内進之介 著『幸福論 〈共生〉の不可能と不可避について』より。願わくば、我に支点を与えたまえ。

 中央の集権的権力による「多様なものの強制」は複数の場面で可能ですが、最も即効的なのは「一流」大学の入試問題を「田吾作詰め込み主義」から解き放つことです。入試内容につられる形で、高校の授業が、正答がない課題に傾斜するように、誘導するわけです。
 ここに「不安のポピュリズム」はない。ここにあるのは、文科省が二〇年間やってきたゆとり教育と、現場の「田吾作平等主義」や「田吾作詰め込み主義」との乖離です。乖離した理由は、大学入試改革を含め、徹底した強制がなかったからです。
(宮台真司、鈴木弘輝、堀内進之介『幸福論 〈共生〉の不可能と不可避について』NHKブックス、2007)

 

 こんにちは。臨時休校中に刷られた漢字やら計算やらのプリントを日本全国から集めて積み重ねていったら、もしかすると月まで届くかもしれません。そうだとすれば、それはおそらく宮台真司さんいうところの《現場の「田吾作平等主義」や「田吾作詰め込み主義」》によるものでしょう。他の学年もたくさん刷っているから、宿題がないと何もやらないから、保護者が不安になっているから。そういった理由で「駄目な平等主義」と「駄目な詰め込み主義」が加速し、さらにそれらの主義が「与える=定着する」という安易な発想によって強化され、あわや「月面着陸か?」と相成ったというわけです。

 

 願わくば、艱難辛苦を与えたまえ。
 願わくば、我に支点を与えたまえ。
  

 極端な例を挙げれば、ひとりでインド一周(貧乏旅行)でもすれば、経験が支点となって、地理や世界史のプリントなんて与えなくても勝手に学んで自然と定着し、果ては「てこの原理」で地球だって動かしてしまうかもしれませんよという話です。そのほうが子どもも親も先生も幸せでしょう。三方よしとはこのことです。

 

 

 宮台真司さん、鈴木弘輝さん、堀内進之介さんの『幸福論 〈共生〉の不可能と不可避について』を再読しました。三人の社会学者による鼎談をまとめたものです。章立ては以下の5つで、宮台真司さんの「『幸福への設計』はいかにして可能なのか」(「序」にかえて)で始まり、鈴木弘輝さんの「『幸福』から『教育』へ、『教育』から『幸福』へ」を第3章と第4章の間に挟んで、堀内進之介さんの「批判の可能性を切り開く批判」(あとがき)で終わります。


 第1章 パターナリズムこそ幸福の大前提?
 第2章 いかに幸せだと思わせるのか ―― 幸福の社会工学
 第3章 エリートが「幸福な社会」を作るのか?
 第4章 教育を通して「疑似階級社会」を作る?
 第5章 〈社会設計〉の不可能と不可避

 

 冒頭の引用にもあるように、教育に関する話がたびたび出てきます。幸福や共生のことを考えるに当たって、教育という視点は必要不可欠なのでしょう。

 

 子どもたちの幸福はいかにして可能か。

 

 年長世代が良かれと思った年少世代の生育環境を、学習環境を含めてセットアップするところに、教育の眼目があります。だから教育は必然的にパターナリズムになります。子どもにとって何が「良いこと」かは、子どもよりも年長世代の親や教員のほうがよく知っているはずであるという前提が、教育にはあるわけです。
 このことはよく考えると自明じゃありません。でも教育というふるまいに加担する以上は、そうした前提に立つことが論理的に不可避になります。自明性を否定しようが肯定しようが、現実的にはそういう前提で教育をするしかない。そういう意味で、パターナリズムをふるまいにおいて否定するということは、ありえないわけです。

 

 わたしたち教員や親が、何を良かれと思うのか。宮台さんは《これについては、時代性や社会性や世代性が刻印されるので、完全に一般化してものを言うことはできません》と書きます。そして《ただ、言えるのは、最近になればなるほど、無自覚にやるということが難しくなる――再帰的になる――ということです》と続けます。

 再帰的になるというのは、簡単にいうと、絶えず選択を迫られるということです。だから教員も保護者も不安になって、慣れ親しんでいる「田吾作平等主義」と「田吾作詰め込み主義」が強化されてしまう。他の学年が大量に国語のプリントを刷っているのに、例えば5年生だけ「教科書に載っている重松清さんの『カレーライス』を音読しましょう。スラスラと読めるようになったら、重松清さんの他の小説を探して、3冊以上読みましょう。ズームを使って友達と感想をシェアするのもいいですね。家族の協力のもと、できる範囲でかまいません」なんて宿題は出しにくい。正答もないし、家庭への信頼が必要だし、何よりも他の学年はそんなことをやっていないからです。

 

 いけてない平等主義と、いけてない詰め込み主義。

 

 学校が再開するにあたって、時数が足りないし教えないといけないこともたくさんあるから、総合的な学習の時間なんてやってられないという声をよく耳にします。とにかく詰め込まなきゃ!

 

 逆でしょう。

 

 時数が足りないし教えないといけないこともたくさんあるから、総合を梃子にして放っておいても子どもたちが学ぶような動機づけを手当てしていかなければならない。感染症の拡大によっていつまた臨時休校になるかわからないという未来を見据えても、自立した学習者を育てるという学校の目的に照らし合わせても、教育先進国と呼ばれるフィンランドの標準時数が日本のそれよりも圧倒的に少ないということを考えても、逆でしょう、としか思えません。そして支点を与えるということは、総合に限った話ではなく全ての教科で重視していくべきことです。にもかかわらず「支点」或いは「探究」の本丸である総合を軽視するなんて。宮台さんが10年以上も前から言っていたゆとり教育(With 総合的な学習の時間)と、現場の「田吾作平等主義」や「田吾作詰め込み主義」との乖離は、もはや目も当てられません。

 

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 教育の話の一部だけを取り上げましたが、この『幸福論 〈共生〉の不可能と不可避について』には、フィールグッド・プロジェクトのような社会設計をはじめ、もっとでっかい話が出てきます。社会は教育よりもでっかい。だからこそ学校現場では、田吾作詰め込み主義ではなく、てこの原理の「支点」になるような「社会的なもの」にコミットメントする教育を考えていきたい。そう思います。

 

 

 Twitter で似たようなことをツイートしたところ、素敵なリプライがありました。勝手に引用します(その後了承)。支点にするに相応しい課題だなぁ。

 ちなみにわたしの勤めている自治体では、夏休みはやや少なくなるものの、標準時数の達成が目的となってしまう履修主義ではなく、習得主義の考え方を採用するようです。素晴らしい。でも、どうなることやら。変化を楽しみつつ、変化を起こしつつ。

 

 見たいと思う学校の変化に、

 

 誰かなってください。

 

 

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