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郡司ペギオ幸夫さんの『やってくる』刊行記念! 郡司ペギオ幸夫さんと宮台真司さんのトークイベントに参加してきました!

 バラバラに見える人たちを何らかの指標で一般化し、理解する方法が、人工知能的理解です。特定の指標によって、個人の多様性がコミュニティでの立ち位置と理解され、その表現に成功すると、それ以外の指標や文脈の可能性は排除される。これで十分理解可能で、その外部を考える必要はなくなると考えられます。
 つまり人工知能的知性においては、うまい指標が見出された途端、基本的に外部は存在しなくなるのです。指標によって、バラバラの個は体系化・一般化される。逆にバラバラであるとは、指標に対する無知としてのみ理解されます。
(郡司ペギオ幸夫『やってくる』医学書院、2020)

 

 こんばんは。昨夜、 郡司ぺギオ幸夫さんと宮台真司さんのトークイベントに参加してきました。郡司さんの新刊『やってくる』の刊行記念イベント、第二弾です。場所は代官山の蔦谷書店。第一弾は大澤真幸さんとの対談だったというのだから、この『やってくる』の注目度がわかります。しかも今回は、オンラインとオフラインの同時開催。蔦谷書店の人文コンシェルジュさん曰く「約8ヶ月ぶり」というリアルの集いに、人工知能ではなく天然知能を大いに刺激された2時間+α でした。

 

 

 フロイトはアドラーのことを「ねずみ」と呼んで徹底的に否定していた。

 

 宮台さんがそう言うんです。正確には、否定ではなく「軽蔑していた」(メモより)。この話、おもしろかったなぁ。

 アドラーといえば、ベストセラーの『嫌われる勇気』であり、位置づけとしては「自己啓発の源流」であり、そして小学校の教員にとっては赤坂真二さんの『アドラー心理学で変わる学級経営 勇気づけのクラスづくり』です。つまりプラスのイメージ。そのアドラーをフロイトが軽蔑していたって言うんです。ねずみ呼ばわりして。あるときまでは共同研究者でもあったフロイトとアドラー。共同研究の最中に、何かトラウマになるようなことでも起きたのでしょうか。

 

 トラウマなんてどうでもいい。

 

 過去ではなく未来に重きを置くアドラーはそう考えます。未来志向。教育は過去を問わない。小学校の先生が好きそうな世界観です。これだけ広まるのだから、もちろんアドラーにも「よさ」がある。でも、この世界観にフロイトはダメ出しをします。フロイトを継承するラカンもダメ出しをします。なぜダメなのか。宮台さんがわかりやすい例を挙げます。

 

 社会に適応している人間。
 社会に適応できない人間。

 

 アドラーは自己啓発的な前者をよしとし、フロイトやラカンはトラウマ的な後者を正しいと発想します。それがダメ出しの理由です。多くの人は次のように考えるでしょう。社会に適応できない人間は「心の病気」だから治せばいい。アドラー流の未来志向で、或いは薬で。

 

 でも、本当に治していいの?

 

 フロイト・ラカン派はそう問います。本当に治していいのか。治すことは社会のおかしさを隠蔽することにならないのか。学校現場でいえば、こんなブラックな労働環境に適応している教員の方がおかしいのではないか。精神疾患で休職した教員の方が正しいのではないか。精神を病んでしまうという事実にこそその社会の本質があるのではないか。だからフロイト・ラカン派は、トラウマを治すのではなく、抱え続け、再解釈して磨き続けることを推奨します。そうしない限り、どこか外部から「やってくる」ものにつながることはできないから。そして「やってくる」ものに開かれている人間にしか、社会を変えていくことはできないから。

 

やってくる (シリーズ ケアをひらく)

やってくる (シリーズ ケアをひらく)

 

 

 やってくる。

 

 さて、何が「やってくる」のでしょうか。例えばそれは「ムールラー、ロームラー」という深夜の歌声だったり、見知らぬ友人だったりするかもしれません。幽霊やUFOの可能性だってあります。

 

 さて「ムールラー」は、いったい何だったのでしょうか。それを考えるために、天然知能という知性のあり方について簡単に説明しましょう。
 頭で考えるのではなく、なんだかハッと感じてわかる「わかり方」を、私は天然知能と呼んでいます。それは人工知能との対比で明らかとなりますが、人工知能というのは機械の知性に限ったものではありません。私はむしろ現代人の多くが人工知能化しているとさえ思っています。

 

 アドラーとフロイトの話に戻れば、アドラーは人工知能的、フロイトは天然知能的です。冒頭の引用でいうところの指標は人工知能的、郡司さんや宮台さんは天然知能的です。だから郡司さんも宮台さんも、ハッと感じてわかるわかり方に長けている。まぁ、ムールラーの話も含めて、高性能な天然知能をもつ郡司さんの体験談は、どれもぶっ飛んでいて理解しがたいのですが。その理解のしがたさが天然知能の天然たる所以であり、新井紀子さんの『AI vs.教科書が読めない子どもたち』でいうところのAIに取って代わられることのない人間のポテンシャルです。にもかかわらず、天然知能を働かせていないように見える大人が増えている。忖度ヤローが増えている。それはなぜか。宮台さんの質問に対して、郡司さんは「子どもの頃からの教育」と答えます。

 

 子どもの頃からの教育。

 

 つまり学校は、AIに代替されてしまうような能力を育てることにやっきになっているのではないか。冒頭の引用でいうところの指標が、すなわち受験学力のようなものが、あまりにも人工知能的に過ぎるのではないか。40人が一斉に同じ内容を、同じペースで、そして同じ方法で学ぶという環境に適応できない子どもを「おかしな子ども」と見なして無理やり適応させ、天然知能を削いでいるのではないか。大なり小なり、人は誰でも天然知能を持っているのに。やってくるものに開かれていたはずなのに。では、郡司さんいうところの「外部」に、或いは宮台さんいうところの〈世界〉に閉ざされないためにはどうすればいいのか。

 

 カヌーを漕ぎ出すことで生きる。

 

 詳しくは『やってくる』をお読みください。『天然知能』も、是非。

 

 

天然知能 (講談社選書メチエ)

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嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え

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