田舎教師ときどき都会教師

テーマは「初等教育、読書、映画、旅行」

真木悠介 著『気流の鳴る音』より。一匹の妖怪が日本を徘徊している。学校スタンダードという名の妖怪が。

 人間の根源的な二つの欲求は、翼をもつことの欲求と、根をもつことの欲求だ。
 ドン・ファンの生き方がわれわれを魅了するのは、みてきたように、それがすばらしい翼を与えてくれるからだ。しかし同時にドン・ファンの生き方がわれわれを不安にするのは、それが自分の根を断ってしまうように思われるからだ。
(真木悠介『気流の鳴る音』ちくま学芸文庫、2003)

 

 こんにちは。研究授業を控えた数日前に、近所にある書店で『戦後思想の到達点』という本を購入しました。大澤真幸さんが聞き手を務めている対談形式の本で、話し手は柄谷行人さんと、真木悠介の筆名をもつ見田宗介さんです。

 本屋をフラフラと歩いているときに、ついつい足を止めて見てしまう「名前」ってありますよね。旅好きの人間にとっての「沢木耕太郎」とか、小説好きの人間にとっての「村上春樹」とか。わたしにとっての「見田宗介」は、引用の『気流の鳴る音』を読んで以来、ずっとそんな「名前」のひとつとしてあり続けています。

 

 Wikipediaの「見田宗介」の頁には、こうあります。

 

《見田ゼミ出身の社会学者・研究者には、内田隆三、吉見俊哉、若林幹夫、舩橋晴俊、福岡安則、亘明志、江原由美子、大澤真幸、宮台真司、小熊英二、熊田一雄、上田紀行、中野民夫らがいる》。

 

 書店の本棚も、私の部屋にある本棚も、もしも見田宗介さんがいなかったら何本かなくなってしまうだろうな、と思わせるに足るそうそうたる顔ぶれです。内閣総理大臣の座に見田宗介さんを据えて、このメンバーで組閣してほしいくらいです。文部科学大臣には、かつてわたしに「教えるより楽しく学び合える場を創ろう!」というメッセージをくださった中野民夫さんを、ぜひ。

 

 全身の血が入れかわるような経験。

 

 インドとラテンアメリカへの旅でそんな経験をした後に書かれたという『気流の鳴る音』。『戦後思想の到達点』では、インタビュアーの大澤真幸さんに《「気流」は要約を許さない作品である》と言わしめています。要するに「直接読んで」ということ。

 

f:id:CountryTeacher:20191130074700j:plain

ラテンアメリカのチチカカ湖畔。旅仲間より(05)

 

『戦後思想の到達点』の中にも「気流」の話が出てきたので、昨夜、研究授業が終わった余韻(というかホッとした感)にひたりながら、久し振りにパラパラと『気流の鳴る音』を読み返してみました。そこで目に留まったのが冒頭に引用した「翼をもつことと根をもつこと」の欲求に関する、ドン・ファンの話です。

 

 翼をもつことの欲求。
 根をもつことの欲求。

 

 ドン・ファンと聞くと、以前に勤めていた自治体で一緒に働いたことのある、師匠のM先生を思い出します。

 

 

 師匠であるM先生は、まさにドン・ファンみたいな生き方をしている人でした。多くの同僚と子どもたちや保護者を魅了する一方で、多くの同僚を不安にもさせていたM先生の存在。いわゆる「学校スタンダード」とはかけ離れた授業が、翼をもっているかのように映っていたのだと思います。

 例えば、板書はほとんどしていませんでした。子どもたちの座席体系も、板書を前提としたスクール形式ではなくアイランド型の座席体系で、一人ひとりが自分のペースで学んでいる。それだけでもう学校スタンダードとは相容れず、板書ありきで教師主導型の先生は不安になります。

 ただ、だからといって、師匠に学校スタンダード的な「根」がないとは思えませんでした。師匠の口癖のひとつは「世界に応える」です。これは『気流の鳴る音』に書かれている、翼をもつことと根をもつことをひとつにする方法である《全世界をふるさととすること》と似ています。 

 師匠が離任するときに職員室で話していたことがまさにそれで、曰く「〇〇小のために働いてきたわけでも、〇〇市のために働いてきたわけでもありません。世界に応えるために働いているんだっていうことを忘れずに~」云々。ドン・ファンそのもの。なかなかそんなこと言えません。

 

 教えるより楽しく学び合える場を創ろう。

 

 そんなドン・ファンを師にもつことから、わたしの授業もスタンダードからはやや外れているようで、以前、全市公開授業のときに、指導主事から「クラスも授業も素晴らしかった。でも、これは〇〇市の道徳ではない」と言われてしまいました。大いに「?」です。田舎教師ときどき都会教師は、そもそも遊動民気質なので、〇〇市に「根」は張っていませんよという話。

 

遊動民の社会は自由だった。平等は、そのことの派生的な結果である。氏族社会は、平等を取り戻すために、自由を犠牲にする。氏族社会では、人は集団から脱出することはできず、贈与やお返しの義務に縛られる。「自由であるがゆえに平等な社会」から「平等であるために不自由な社会」への転換が生じている。
(柄谷行人、見田宗介、大澤真幸『戦後思想の到達点』NHK出版、2019)

 

 学校が過労死レベルの労働(定額働かせ放題)から抜け出せないのは、根をもつことの欲求に批判的なまなざしを向けられず、何も変えられないから。学校スタンダードは「平等であるための不自由な社会」の象徴みたいなものであり、ゆとりのない不自由で閉じた社会は、妬みや嫉みを生み、陰口や噂話が絶えなくなります。だから学校は、いったん全てをゼロにして、全身の血が入れかわるような経験をした方がよい。

 

 一匹の妖怪が、日本を徘徊している。
 学校スタンダードという名の妖怪が。

 

 翼をもつことの欲求を、大切に。 

 

 

気流の鳴る音―交響するコミューン (ちくま学芸文庫)

気流の鳴る音―交響するコミューン (ちくま学芸文庫)