田舎教師ときどき都会教師

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映画『三島由紀夫 VS 東大全共闘 50年目の真実』(豊島圭介 監督作品)より。圧倒的な熱情と、圧倒的な面白さ。

 人間というものは刀を突きつけられると、よし、おれは死んでもいってやるのだ、「板垣死すとも自由は死せず」という文句が残る。しかし口だけでいくらいっていても、別に血が出るわけでもない、痛くもないから、お互いに遠吠えする。民主主義の中には偽善というものがいつもひたひたと地下水のように身をひそめている。その偽善のいちばん甚だしいのは日本であります。
(三島由紀夫『文化防衛論』ちくま文庫、2019)

 

 おはようございます。先日、映画『三島由紀夫 VS 東大全共闘 50年目の真実』(豊島圭介 監督作品)を観てきました。1969年5月13日に行われた三島由紀夫と東大全共闘との討論会の全貌を描いたドキュメンタリーです。高校生の長女と中学生の次女と、それからタイムマシンがあったら大学に入る前の自分にも観せたい(!)と思うくらいにインパクトのある映画でした。言葉を補完する映像の力ってすごいですね。その言葉がどのようなリアルの中で発せられたものなのか。それを知るだけで伝わってくるものが全然違ってきます。

 

  私は諸君の熱情は信じます。これだけは信じます。他のものは一切信じないとしても、これだけは信じるということは分かっていただきたい。

 

 東大全共闘の1000人を超える学生に向けて、三島由紀夫が討論会の最後に放った言霊です。ここでいう「熱情」は、やはり議事録のようなものを読んだだけでは伝わってきません。以前に読んだことのある『文化防衛論』の中に、一橋大学での学生とのやりとり(上記の引用)が収録されていて、今回改めて読み返してみましたが、やはり映画を観る前と観た後とでは、イメージするものが全く違ってきます。三島由紀夫はこの言葉を「いつ刺されてもおかしくない状態」で口にしていたんだなって、そして学生たちもその三島に応えるように「熱情」をもって話していたんだなって、それは映画を観て初めてわかりました。臨場感という点で、CDとライブは違う。当たり前ですが、そんな感じです。

  

 

 板垣死すとも自由は死せず。

 

 あれから50年経って、討論会の舞台となった東大駒場キャンパス900番教室に立ちこめていた「熱情」はどこへ行ってしまったのでしょうか。

 冒頭の引用に《民主主義の中には偽善というものがいつもひたひたと地下水のように身をひそめている。その偽善のいちばん甚だしいのは日本であります》とあります。おそらく三島由紀夫は地下水があふれ出してくる未来を予想していたのでしょう。現在はその甚だしかった偽善が地上に出てきて「民主主義の中には熱情というものがいつもひたひたと地下水のように身をひそめている。その熱情のいちばん乏しいのは日本であります」と言い換えた方がいいような「非政治的な季節」になっています。事実関係がわからないまま放置されている「森友・加計」問題ひとつとっても、そのことがよくわかります。

 非政治的な季節に特徴的な人のことを、内田樹さんは映画のパンフレットに寄せた「政治の季節」という文章の中で、次のように書いています。

 

 自分が何をしようとしまいと、世界は少しも変わらない。だから、私はやりたいことをやる。人を突き飛ばそうと、おしのけようと、傷つけようと、汚そうと、奪おうと、それによってシステム全体にはさしたる変化は起きない。そういうふうに考えることが「合理的」で「クール」で「知的だ」と思っている人のことを「非政治的」と私は呼ぶ。現代日本はこういう人たちがマジョリティをしめている。だから、現代日本は「非政治的な季節」のうちにいると書いたのである。

 

 非政治的な振る舞いによって糾弾された東出昌大さんが、過去の「政治の季節」に生きた三島由紀夫や東大全共闘の学生をクールに語る。これをアイロニーといわずして何というのでしょうか。新型コロナウイルスへの対応も、非政治的な季節のうちにいる間はなかなか解決しないのではないかと危惧します。

 三島由紀夫は『文化防衛論』の中で《たとえば暗殺が全然なかったら、政治家はどんなに不真面目になるか、殺される心配がなかったら、いくらでも嘘をつける》と言っています。政治の季節には、暗殺が政治家の死因の上位にランクされていました。嘘をつくのは命がけだったというわけです。しかし現在の非政治的な季節に暗殺は似合いません。だから嘘はつき放題だし、言葉はどんどん軽くなっていきます。

 

 言葉がどんどん軽くなっていった50年。
 熱情がどんどんなくなっていった50年。

 

結局、どこまで行っても社会というのを変えていくのは言葉なんです。言葉がない限り社会システムは絶対変わらないですから。やはり言葉を突き詰めていくことの重要さというのが、あそこの議論の核心だったと思います。

 

 映画の中に登場する、作家の平野啓一郎さんの言葉です。三島由紀夫と東大全共闘の芥正彦さんとの議論を引き取るかたちで言葉の「重み」を語っていました。たとえ東大全共闘の目指す革命が成功したとしても、たとえ事物との関係性がリセットされるような、芥正彦さんいうところの「解放区」ができたとしても、その後にはまた言葉が必要となります。ブロガーのインクさんが書いているように「目に映るすべての事物はメッセージ」になるからです。だから三島由紀夫は言葉を尽くして1000人を超える学生たちを説得しようとします。天皇の名をもち出し、東大全共闘がもっている熱情に持続性を与えようとします。さて、結果はいかに。

 

taishiowawa.hatenablog.com

 

 映画を観ていない人にはよくわからないだろうなぁということを書き連ねていますが、何はともあれ、魅力的な映画であることには間違いありません。それは、映画に出てくる大人がみな魅力的だからです。三島由紀夫も平野啓一郎も内田樹も小熊英二も瀬戸内寂聴も橋爪大三郎(All 敬称略)も元盾の会の面々もとにかくカッコいい。東大全共闘の芥正彦さんなんて、赤ちゃんを抱っこしたまま三島由紀夫との討論に臨むんです。そして50年後の芥正彦さんも、こんな70代はいませんっていうくらいカッコいい。共通するのは《誰の真似もしないで喋っている》こと。

 新型コロナウイルスの感染拡大で、政治の重要性が日増しに高まっています。非常事態宣言などのニュースを通して、政治や社会に興味をもつ子がどんどん増えているはずです。臨時休校を経験した子どもたちが大人になったときに、どんな言葉を紡ぎ始めるのか。季節はめぐるもの。

 

 政治の季節の再来。

 

 遠からず。

 

 

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