社会学者のオーランド・パターソンに言わせれば、「生涯にわたる心的態度が形成されている時期に、アフリカ系アメリカ人とヨーロッパ系アメリカ人がともにいること」が人種融合教育のもたらす効用なのだ。黒人がいる学校に通った白人は「アフリカ系アメリカ人に対してより寛容であり、彼らが教育面や経済面でより多くの機会に恵まれることにより好意的」との結果が数々の研究から出ている。黒人は黒人で、白人の友人という社会資本を手に入れ、より広範な集団に貴重なネットワークを広げられる。最高裁判事のサーグッド・マーシャルが書いているように、「我々の子どもたちが共に学びはじめなければ、国民が共に生きられるようになる望みはきわめて薄い」のである。
(ミシェル・クオ 著『パトリックと本を読む 絶望から立ち上がるための読書会』白水社、2020)
こんばんは。上記の本を読み始めたときに、8年前に参加したセミナーのことを思い出しました。教育学者の志水宏吉さん(主な著書に『学力を育てる』など)と、ティーチ・フォー・ジャパンを立ち上げたばかりの松田悠介さんが登壇したセミナーです。テーマは「力のある学校の探究」。当時の志水さんと松田さんに共通していた願いは、教育格差の解消です。家庭環境のよしあしにかかわらず、子どもたちの学力を育てたい。志水さんは効果のある学校の研究で、松田さんはアメリカの教育系NPO「ティーチ・フォー・アメリカ」の日本版を立ち上げることで、その願いをかなえようとしていました。
もう8年前のことなのでその内容はほとんど憶えていませんが、大阪の教育格差をどうにかしようとがんばっていた志水さんの「橋下徹さんが選挙に勝って、計画していたことが全てお蔵入りになってしまった」という嘆きと、ティーチ・フォー・ジャパンについて語る松田さんの「キラキラ」だけは、よく憶えています。
ちなみに松田さんを虜にしたティーチ・フォー・アメリカのしくみは、ハーバードやスタンフォードなどの一流大学の卒業生、既卒生を集めて選抜し、独自のトレーニングをおこない、その後2年間、貧困地域や教育困難校といわれる学校で教師をしてもらうというもの。そうすることによって子どもたちは賢さに触れ、学力を伸ばし、教師たちは自らとは異なる生育環境があることを知り、人間としての幅を広げることができるというわけです。処女作『パトリックと本を読む』の著者でありパトリックの先生でもあるミシェル・クオも、そのティーチ・フォー・アメリカによって派遣されたハーバード大卒の「教師」のひとり。
2010年、就職ランキング1位!
グーグルやアップル、ディズニーよりも、NPOのティーチ・フォー・アメリカで働きたい。若者たちにそう思われていた理想の就職先「ティーチ・フォー・アメリカ」は、過去にメディアで取り上げられた際、松田さんと同様に「キラキラ」したイメージが先行していました。が、もちろん世の中そんなに甘くなく、東大卒だろうと京大卒だろうとハーバード大卒だろうと、たった2年で困難校をどうにかできるわけがありません。アメリカの教育に詳しい鈴木大裕さんも、著書『崩壊するアメリカの公教育』の中で次のように書いているし、実話ベースで書かれている『パトリックと本を読む』を読んでも、やはりそんなに甘くないって、そう思います。
貧富の差が生む教育機会の格差を政府が無視しつつ、学習到達度の格差は教育現場の責任として教員や学校を罰するわけであるから、貧困地域からは経験豊富で優秀な教員が消え、最も経験の浅い、もしくはティーチ・フォー・アメリカなど、たった五週間の集中講座で非正規教員免許を取得したやる気のある若い講師らが、最も教育的ニーズの高い子どもたちを教えるという不幸な循環を生んでしまった。
黒人文学を通して子どもたちにアメリカの歴史を教えよう。生徒の人生も私と同じように本で変えられる。そう信じていた「やる気のある若い講師」が、台湾系移民の父と母のもとに生まれたひとり娘のミシェル・クオ。そして「最も教育的ニーズの高い子どもたち」が、卒業したら整備士になりたいと願うパトリック(15歳)のような黒人の生徒たちです。ミシェル・クオとパトリック。
ひとりの先生と、ひとりの生徒。
ミシェル・クオさんの『パトリックと本を読む』を読みました。ティーチ・フォー・アメリカのプログラムによって、貧困地域にある学校へと派遣された著者の「自己発見」と「他者理解」の記録です。初心に返ることもできたし、学ぶこともたくさんあったし、暫定ですが、今年読んだ本の中ではナンバー1のように思いました。例えば次のようなくだり。
パトリックは本を高く上げながら部屋に入ってきた。それが勝ちとったメダルであるかのように。そして「これ、ほんとにそうだね」とひと言。胸に大きなものがこみ上げた。そう、結局はこんなにも簡単なことなのかもしれない。ある人に本を一冊渡す。その人がそれを読み、心を動かされる。ある段階を越えたら、あなたはただの本を運ぶ人になる。相手と本とをつなぐパイプ役でしかなくなるのだ。
ミシェル・クオにとって《自分の希望を全て託したくなるような生徒》だったパトリックは、2年間、デルタの学校でミシェル・クオの教えを受け、ミシェル・クオが去った3年後に人を殺めます。温厚だったのに、暴力がきらいだったのに、詩を書く才のある素晴らしい生徒だったのに。そしてどこか私と似ているところがあったのに。ミシェル・クオが最初に教えた2年間では、引用でいうところの「ある段階」をまだ完全には越えていなかったのかもしれません。知らせを受けたミシェル・クオは《あなたがデルタを去らなければ、パトリックは監獄に入っていなかったかもしれない。あなたはパトリックに対し果たす義務がある》という心の声を聞きます。逡巡しつつも、新しい仕事を投げうち、しばらくデルタに留まるという選択肢をとった著者が、パトリックのために、そして自分のために、拘置所で「絶望から立ち上がるための読書会」を開くというのが、この本の大筋です。
いったん教師になれば、いつでも教師。
パトリックはこんなにも成長した。しかし、そのとき私の心を打ち、その後何年ものあいだ私の心に強く残っていたのはむしろ、私がパトリックに対してしたことの少なさだった。謙遜を装っているのではない。パトリックの知的成長に必要だったもののあまりの少なさに愕然としていると言いたいのだ。静かな部屋と、たくさんの本と、大人の導きが少しあればここまで伸びる。なのに、それらが与えられる機会はほとんどなかったのだ。
このくだりにも考えさせられました。日本の学校(+宿題、学習塾)では、朝から晩まで、或いは月曜日から金曜日まで、ときには土曜日まで、あの手この手で「知的成長に必要だと大人が判断したもの」を子どもたちに与えています。与えられる機会がほとんどないのも問題ですが、与えられすぎるのも問題です。どちらも自分で考えるというチャンスを奪われてしまうからです。Less is more.与えるものは、もっと少なくていい。教えることも、もっと少なくていい。子どもたちには、もって生まれた「伸びしろ」があるのだから。教師は、大人は、冒頭の引用にある人種融合教育のように、子どもたちが自然と伸びていくような場をつくることに力を注いだ方がいい。
ティーチ・フォー・アメリカで貧困地域や教育困難校を経験したミシェル・クオのようなトップエリートが、その後政治家になったり企業の要職に就いたりして教育格差の是正につながるようなアクションを起こすというのが明るい未来であり、彼ら彼女らが諦めてしまうというのが暗い未来です。それは冒頭に引用した《人種融合教育のもたらす効用》と意味合いとしては同じです。白人と黒人を混ぜる。恵まれている人とそうでない人を混ぜる。そしてリチャード・ローティいうところの「人権とは何か」ではなく「人間とは誰か」を考えられる大人を増やしていく。そうすれば、教育格差の問題も解決への道が開けていくかもしれません。
でも僕は貧しくて、持っているのは夢ばかり
ミシェル・クオがパトリックに紹介したイェイツの詩「エーが天の衣を求める」の一節です。パトリックが気に入るとしたら、この一節だろう。ミシェル・クオがそう思ったように、私もそう思いました。しかしパトリックは違う節を選び、ミシェル・クオは「なんて愚かな」と自分を恥じます。わかるなぁ。子どもは、ときに教師の想像を軽くこえていきますから。
ミシェル・クオと本を読む。
読書の秋に、お勧めです。