撮影前は、とどめをさしたあと千松さんに何を質問すればいいか、ちょっと意地悪に「かわいそうだと思わないんですか」と聞いてみるといいのか?・・・・・・などと甘いことを考えていましたが、いざ直面すると打算は吹き飛び、何も聞くことができませんでした。むしろ何も話しかけてはいけない、第三者である私などが介入する場ではないと感じました。気づけば、極度の緊張状態で涙も出ず、喉だけがカラカラになっていました。高揚感、恐怖感、安堵感が複雑に交錯する不思議な体験でした。後日、千松さんに言われました。「それこそが生きているっていう感覚なんじゃないかな」と。
(公式パンフレット『僕は猟師になった』リトルモア、2020)
こんばんは。明日は卒業式です。桜花爛漫。6担にとっては高揚感と安堵感が複雑に交錯する1日になるのではないでしょうか。もしかしたら、呼名を間違えたらどうしようなんていう恐怖感だってあるかもしれません。いずれにせよ「それこそが生きているっていう感覚なんじゃないかな」と。僕は教師になった。小学5年生の国語の教科書に載っている「大造じいさんとガン」(椋鳩十)でいえば、
さぁ、いよいよ戦闘開始だ。
先日、映画『僕は猟師になった』(川原愛子 監督作品)を観ました。2018年にNHK総合で放送され、再放送の希望が殺到したという「ノーナレ けもの道 京都いのちの森」を映画化したものです。わな猟師の千松信也さんの日常を追ったドキュメンタリーでもあります。テレビ版の400日に加え、さらに300日の追加取材を行ったというのだから、その意気込みやクオリティーが想像できるのではないでしょうか。ところで、
わな猟師って、何?
猟師と聞くと、大造じいさんのように「ぐっと銃を肩に当て、残雪をねらいました」という「狩猟」をイメージします。ところが、千松さんは銃を持っていません。ナイフを別とすれば、持っている人工物は「くくりわな」という、獲物の足を捕えるために使う輪っか型の道具だけです。千松さんは、この「くくりわな」をワイヤーとバネと留め具で自作し、イノシシやシカが通るけもの道にしかけます。
だから「わな猟師」。
そういえば、大造じいさんも罠を使っていました。タニシをつけたウナギ釣り針を杭につないだり、タニシを餌場にばら撒いたり。猟銃も持っているので、現代でいうところの「銃猟免許」と「わな猟免許」のダブルホルダーといったところでしょうか。ちなみに都道府県知事が交付している狩猟免状は3種類です。物語の表現を借りれば、大造じいさんも「さるもの」ですから、もしかしたらもうひとつの「網猟免許」に相当する「腕」ももっているかもしれません。
で、話を戻すと、ガンの頭領である残雪は、この大造じいさんのしかけた罠に気付くんですよね。そして仲間に指導して、逃げ果せる。知恵比べの緒戦は残雪率いるガンたちの勝利に終わるというわけです。
直径たった12㎝のわなで、広大な山のなか、まだ見ぬ獲物と知恵比べする。
パンフレットの見返しにそうあるように、わな猟師である千松さんもまた、大造じいさんと同じように動物たちと知恵比べをします。まだ見ぬ獲物がこの道を通るかもしれない。そのとき、この枝を避けて、このあたりに足をつくかもしれない。だからここに罠をしかけよう。
猟師になって19年、けもの道を歩くことに飽きることはないという千松さんです。獲物たちの動きを具体的にイメージしながら「くくりわな」をしかけていきます。
千松さんが知恵比べに勝つとどうなるのか。
イノシシやシカがこの輪の中に足を踏み入れると、即座にバネの力で輪が締まり、獲物はその場から逃れられなくなります。そこを千松さんが襲うというわけです。
さぁ、いよいよ戦闘開始だ。
棍棒のような木を手にしている千松さん。片足をワイヤーに捕られ、パニックに陥っているイノシシの眉間に、ガツン。悲痛なうめき声とともにぶっ倒れるイノシシ。千松さんは昏倒したイノシシに馬乗りになり、取り出したナイフで心臓の大動脈に、ズブリ。
かわいそうだとは思わないんですか?
こうやって文字に表してみると、監督の川原愛子さんが《ちょっと意地悪に「かわいそうだと思わないんですか」と聞いてみるといいのか?》と考えていたというのも頷けます。が、映像で体験すると、それこそ「何も言えねぇ」となるんです。目の前で観ていた川原さんにとってはなおさらでしょう。かわいそうとか、残酷とか、そういった次元ではありません。実際、映画化のきっかけとなったテレビ番組「ノーナレ けもの道 京都いのちの森」には「残酷だ」という非難をはるかに超える「憧憬」が集まったとのこと。
憧憬、まさにそれです。
映画には入っていませんが、「なぜ普通に就職しなかったのか?」と聞いたことがあります。千松さんは京都大学出身、会社組織のエリートとして働く道もあったはずだと思ったので。千松さんは「やりたい仕事もなかったし、狩猟も続けたかった。肉や野菜、魚なんかの食べ物を野山から直截獲れば、それを買うためのお金は稼がなくていい。山からは薪などの燃料も手に入る。現在は、週の半分程度だけ働いて最低限のお金を稼ぎつつ、好きなことを続けるという生活に落ち着きました」と答えられました。
憧憬です。
具体的には、自分の「好き」を、すなわち自分の「充実」を脇に寄せずに生きているということに対する憧憬。そして「狩猟」という行為が登山家や探検家のそれと同じように「死」を媒介として強烈な「生」を惹起させているということについての憧憬です。ひっくり返せば、自分の「好き」や「生きているっていう感覚」とはかけ離れた人生を送っている人が大勢いるということでしょう。だから視聴者から大きな反響があった。
山の中で足の骨を折った千松さんが、手術を拒否し、その理由を「フェアじゃないから」と語る場面があります。
千松さんもさるものです。
固定しておけば、放っておいても骨はくっつく。変な風にくっついて歩きにくくなるかもしれないけれど、山の中で怪我をしたのに手術なんかでピカピカの体に戻したら、イノシシやシカに対してフェアじゃない。動物たちだって、骨折しても逞しく生きているのだから。そういった理由です。
「おうい、ガンの英雄よ。おまえみたいなえらぶつを、おれは、ひきょうなやり方でやっつけたかあないぞ。な、おい。今年の冬も、仲間を連れてぬま地にやって来いよ。そうして、おれたちは、また堂々と戦おうじゃあないか。」
まさに現代の大造じいさんです。ちなみに現代の大造じいさんには2人のお子さん(♂、♂)がいて、小学生のその二人がイノシシやシカの解体を手伝ったり、パパと一緒にけもの道を歩いたりします。素敵な子育てです。都会と田舎の境にある千松家には、子どもたちの友達がよく遊びに来ていて、そんなところもまた、素敵な子育てだなって思います。子どもたちもさるものです。自分の「好き」や「生きているっていう感覚」を大切にしている大人に自然と惹き付けられるのでしょう。卒業生のみなさん、
自分の「好き」や「生きているっていう感覚」を大切に。
おやすみなさい。