田舎教師ときどき都会教師

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頭木弘樹 著『食べることと出すこと』より。この人には何か、事情や理由があるかもしれない、と思える想像力を子どもたちに。

「食べること」が困難になった後の経験について、私が長々と書いてきたのも、何か文句や主張があるからではなく、「経験しなければわからないこと」について、書けることだけでも書くことで、そのほんの一部だけにしろ、経験していない人にも伝わったとしたら、それは面白いことではないかと思うからだ。
 ほんの少しでも「面白い」と思ってもらえたら幸いだ。
(頭木弘樹『食べることと出すこと』医学書院、2020)

 

 こんばんは。ほんの少しではなく、隅から隅までめちゃくちゃ「面白い」と思える本に出会いました。頭木弘樹さんの『食べることと出すこと』です。大学3年生のときに難病の潰瘍性大腸炎を患い、食べることと出すことが困難になってしまったという、頭木さん。同じ病気を、頭木さんと同じ20歳のときに患った、学生時代の友人を思い出しながら、ゆっくりとページをめくりました。この本、友人に読ませたかったなぁ。車中のバナナと同じで、いい迷惑かもしれないけれど。

 

 

 前段の「車中のバナナ」というのは、山田太一さんのエッセイのタイトルです。頭木さん曰く、このエッセイが「好きでしかたがない」とのこと。内容を要約するとこんな感じ。電車の四人がけの席で一人がバナナを勧めてきた。二人は受け取って食べた。でも私は断わった。遠慮ではなく、欲しくないから。バナナマンは「まあ、ここへおくから、お食べなさいって」と言った。

 

 妙にしつこいのだ。

 

 やがてバナナマンは「せっかくなごやかに話していたのに、あんたいけないよ」と私を非難しはじめた。やれやれ。山田太一さん曰く《次第に窓際のバナナが踏み絵のようになって来る》。

 

 バナナがバナナでなくなるとき。

 

 この話、ちょっと宿題と似ています。担任が善意で宿題を出す。一人だけやってこない子がいる。担任は「まあ、休み時間にでもやりなさいって」と言った。でもその子はやらなかった。やがて担任は「せっかくなごやかに対応していたのに、あんたいけないよ」とその子を非難しはじめた。その子にはもしかしたらやむにやまれぬ事情があるかもしれないのに。宿題が宿題でなくなるとき、担任と子どもとの関係性が崩れます。

 

 宿題くらい、やれよ。
 バナナくらい、食えよ。

 私は病気をする以前は、お酒も飲めたし、好き嫌いもなかったし、珍しいものを食べるのも好きなほうだったので、人から何か勧められて断わるということがあまりなかった。
 だから、こうした圧力や非難があることも知らなかった。
 しかし、それはひどく鈍感なことだったと思う。

 

 潰瘍性大腸炎になると、その程度にもよりますが、「食べること」に制限がかかるようになります。アルコールはもちろんのこと、コーヒーや紅茶などの嗜好品もダメ。キノコ類はすべてダメ。テグタンのような辛い刺激物もダメ。果物も、イチゴのように種が取り除けないものはダメ。エトセトラエトセトラ。

 

 入口があって、出口がある。

 

 入口の「食べること」をコントロールしないと、出口の「出すこと」がコントロールできなくなってしまうからです。もしも「食べること」に制限をかけなかったらどうなるか。職員室で下痢や血便を「漏らすこと」を想像してみればわかるでしょう。入院先の病院にて、頭木さん曰く《現実の気がしない。しかし、まぎれもない現実だ。頬を叩くまでもなく、下半身が便にまみれているのだから、その感覚が現実だと思い知らせてくれる》云々。

 

 俺、もうテグタンとか食べられないんだよね。

 

 学生時代、後に潰瘍性大腸炎を患うことになる友人と、ときどき二人で近所の焼き肉屋に行っていました。定番は、テグタンとタン塩とビールです。でも、これらは潰瘍性大腸炎になるとすべてリスクとなります。だから友人が難病に冒されて以来、二人でその焼き肉屋に行くことはなくなってしまいました。それどころか、どこかに二人で食べに行くという機会自体がほとんどなくなってしまいました。頭木さんの表現を借りれば《食べることに困難が生じてみて初めて、それが「自分と他人を結ぶ通路」だと気づいた》というわけです。友人も、きっとそう思っていたのではないかと想像します。

 

 作家の仕事は、人々の想像力を回復すること。

 

 これ、確かナディン・ゴーディマーの言葉だったと記憶しているのですが、出典がわかりません。彼女は92年にノーベル文学賞を受賞した、南アフリカの作家です。頭木さんの『食べることと出すこと』には、山田太一さんの「車中のバナナ」のように、文学作品などからの引用が多く紹介されています。闘病中の支えになっていたのが文学であり、そして普遍性のあるものを媒介することによって、潰瘍性大腸炎という個人的な体験がよりわかりやすく読者に伝わるのではないかという思いがあってのことだそうです。それらの引用が、詩人が句読点を打つかのように、

 

 どんぴしゃり。

 

 そのこともまたこの『食べることと出すこと』の魅力となっています。とはいえ、やはりこの本の最大の魅力は、ナディン・ゴーディマーだと思われる言葉にもあるように、想像力の大切さを教えてくれるところにあるのではないでしょうか。この人には何か、バナナを食べられない事情や理由があるかもしれないと想像する力。子どもたちにも伸ばしてほしい「力」です。

 

 そういう経験をした人は、他人にもやさしくなる場合がある。相手の行動を不愉快に思ったときにも、「この人には何か、事情や理由があるかもしれない」ということを考える。そして、同じ色に染まらないからといって排除しない。

 

 そういう経験というのは、バナナがバナナでなくなるような経験のことです。それにしても、以前にこのブログで紹介した『絶望名人カフカの人生論』(カフカ 著)の編訳者である頭木さんが、こんな絶望を味わっていたなんて、想像もしていませんでした。

 

www.countryteacher.tokyo

 

 絶望名人カフカの人生論。この本もまた、一足先に旅立ってしまった友人に、いい迷惑かもしれないけれど、届けたかったなって、そう思います。

 

 おやすみなさい。

 

 

カフカはなぜ自殺しなかったのか?: 弱いからこそわかること

カフカはなぜ自殺しなかったのか?: 弱いからこそわかること

  • 作者:頭木 弘樹
  • 発売日: 2016/12/15
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)