田舎教師ときどき都会教師

テーマは「初等教育、読書、映画、旅行」

鹿島茂 著『悪女入門』より。教室で見聞きする「男子ってバカだなぁ」が資本主義を回すことになる(かもしれない)。

 なんのことかといえば、私が大学で教えているフランス文学というのはファム・ファタルと呼ばれるスーパー・ウッフンの登場する小説ばかりなのですから、少し、力点の置き方を変えてやれば、「フランス文学史」も「フランス文学演習」も、そのままファム・ファタルの誘惑術の講義となりうるのです。フランス文学を勉強するといったのでは、欠伸をしてしまう女子学生も、ファム・ファタルの誘惑術ということなら身を乗り出すにちがいありません。
(鹿島茂『悪女入門 ファム・ファタル恋愛論』講談社現代新書、2003)

 

 こんばんは。ファム・ファタル(femme fatale)というのは《恋心を感じた男を破滅させるために、運命が送りとどけてきたかのような魅力をもつ女》だそうです。魔性の女みたいな感じでしょうか。魔性の女と聞いて思い浮かぶのは女優の葉月里緒奈さんです。何せ20歳のときに「恋愛相手に奥さんがいても平気です」って言い放ったそうですから。しっかり者の長女が20歳になったときに同じようなことを口にしたら、

 

 親心の破滅です。

 

 いわんや甘えん坊の次女をや。我が子をファム・ファタルと呼ばれるスーパー・ウッフンにするために、否、しないために、今日はこれです。

 

 

 鹿島茂さんの『悪女入門 ファム・ファタル恋愛論』を読みました。フランス文学やフランス文化をファム・ファタルという観点から眺めた研究の書であると同時に、鹿島さん曰く《恋愛の本質を知るのにも》役立つ一冊です。なぜ恋愛の本質を知るのにも役立つのかといえば、それは当然、近代的な恋愛概念がフランス文学の中から生まれたからです。取り上げられている文学作品は、以下。

 

  第1講 アベ・プレヴォ『マノン・レスコー』
  第2講 プロスペール・メリメ『カルメン』
  第3講 A・ミュセ『フレデリックとベルヌレット』
  第4講 バルザック『従妹ベット』
  第5講 デュマ・フィス『椿姫』
  第6講 G・フローベル『サランボー』
  第7講 J・K・ユイスマン『彼方』
  第8講 エミール・ゾラ『ナナ』
  第9講 マルセル・プルースト「スワンの恋」(『失われた時を求めて』より)
 第10講 アンドレ・ブルトン『ナジャ』
 第11講 ジョルジュ・バタイユ『マダム・エドワルダ』

 

 残念なことに、ゾラの『ナナ』以外読んだことがありません。勉強不足と恋愛不足が身に沁みます。

 第1講から第11講まで、11人のファム・ファタルと「女のいる男たち」が出てきます。ポイントは《ファム・ファタルとは、あくまで、女と男の相対的な組み合わせにおいてのみなりたつ概念》にすぎないということ。喜びをもたらす組み合わせを見つけることが自由へのエチカである(!)と説いたスピノザとの比較でいえば、ファム・ファタルは喜びではなく、その破滅バージョンです。

 

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 組み合わせたときにファム・ファタルをファム・ファタルたらしめるのは《破滅するだけの価値のある男》です。例えば前澤友作さんのように莫大な財産をもっている働き盛りの壮年とか、小泉進次郎さんのように立派な将来を嘱望された優秀な美青年とか。要するに私のような普通の人がファム・ファタルによって破滅させられることはないということです。一安心というか何というか。

 第1講「健気を装う女」に登場するマノン・レスコーが、衆目の一致するところのファム・ファタルの原型だそうです。健気を装う女って、確かに。私も簡単に騙されそうです。以前、健気でいい子だなぁと思っていた100パーセントの女の子が「私、友達によく『あざとい』って言われます」って、謎の告白をしてきたことがありました。自らを下げるようなことをわざわざ口にするなんて、ますます健気だなぁと思った私はバカ丸出しなのですが、そのバカ丸出しな男を巧みに操るのがファム・ファタルです。幸いなことに、私には破滅に値する価値はないのでノー・プロブレムでしたが、『マノン・レスコー』の主人公であるシュヴァリエ・デ・グリュは、かの有名なマルタ騎士団への入団が確実視されるほどの価値ある男だったので相当にプロブレムです。

 

不安になったデ・グリュが詰問すると、マノンは平然として、「だってお金をくれる親戚がいるっていったでしょ」と答えます。よく考えてみれば、庶民の出であるマノンにそんな鷹揚な親戚がいるというのはおかしな話なのですが、なにしろデ・グリュは心の底からマノンを愛していたので、とくに不審には思わなかったのです。

 

 バカ丸出しです。マルタ騎士団、恐れるに足らず。マノンによって破滅への道に引きずりこまれたデ・グリュは、やがて犯罪行為に手を染め、最終的には殺人を犯して《マイナス無限大》に落ちます。第2講に登場するドン・ホセ(♂)も、カルメン(♀)の罠にかかり、お決まりの殺人を犯したというのだから、

 

 男ってバカだなぁ。

 

 先日、6年生の女の子が「男子ってバカだなぁ」としみじみ話していました。バファリンと同じように半分は愛情でできている台詞ですが、半分は事実でしょう。第3講のベルヌレットは「都合のいい女」を演じることで、第4講のヴァレリーは「俺だけが選ばれた」という自己愛を満足させることで、第6講のサランボーは処女ゆえの「鈍さ」によって、第9講のオデットは「愛より長生きするという嫉妬」を操ることによって、バカな男を手玉に取ります。第8講のナナに至っては、次から次へとバカな男をしゃぶり尽くして散財させ、近代資本主義をも加速させてしまうというのだから、殺人同様にプロブレムです。

 

 ヴェルナー・ゾンバルトというドイツの経済学者は、資本主義の本質を「生産」に置くマルクスも、「貯蔵」に置くウェーバーもともに誤りを犯しているとして、資本主義、とりわけ近代資本主義を生み出すものは、むしろ富の循環を促す「贅沢」(=奢侈消費)であり、その「贅沢」の引き金となるのは、女に対する男の恋、ひとことでいえば恋愛と性欲であると喝破しましたが、ナナこそは、このゾンバルトのいう資本主義のメカニズムにほかなりません。

 

 小学校の教室で目にしたり耳にしたりする「男子ってバカだなぁ」が資本主義を回すことになる(かもしれない)。そう考えると、やはり教員という仕事にはやり甲斐があります。教育って、大事。

 

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 パパってバカだなぁ。

 

 おやすみなさい。

 

 

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