田舎教師ときどき都会教師

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角幡唯介 著『探検家の事情』より。10年後には、小学校の図書室の伝記の棚に角幡唯介さんの本がありそうだな。

ところが探検をあつかった本格的なノンフィクション作品では、こうした普段の小市民的日常は描けない。じつはこれは私にとってはけっこうストレスだ。私の探検という非日常は日常があることによってはじめて支えられているのに、ベースとなる日常を切断して非日常だけを際立たせて、あたかも英雄的な行為として描いてみせても、それは片手落ちなのではないかという思いが常にあるからだ。そこで私はエッセイでこの日常の部分をチラチラとほのめかすことで、作品間のバランスをとっている。じつは私、こんなにイケナイ人間なのです、と。
(角幡唯介『探検家の事情』文春文庫、2019)

 

 おはようございます。さて、どんなにイケナイ人間なのでしょうか。探検家の情事って、いったい。探検家ゆえ、9時5時の仕事ではなさそうなので、やはり昼下がりでしょうか。

 ブラジルの片田舎にて、角幡唯介さん曰く《茶色い肌は実にきめこまかで、細いからだはカモシカのように引きしまり、くびれたウエストからヒップにかけてのびる緩やかなカーブを見るたびに、私はその肢体に無関心でいられなかった。何より声をかけるたびに返ってくるはじけるような笑顔がチャーミングで、サンキストオレンジのように爽やかだった》云々。サンキストオレンジって、言葉の選択が天才です。ちょっと飛ばして曰く《その話を聞いたとき、私は彼女が結婚しているという事実にショックを受けるより、夫が留守にしているという話のほうにチャンスの到来を感じた》云々。イケナイ探検家です。非日常が際立ちます。

 

 間違いました。

 

 探検家の情事ではなく、探検家の事情でした。角幡さん、ねらっているとしか思えません。

 先日、その角幡さんの新刊『そこにある山』を読んだらめちゃくちゃおもしろかったので、昨日、近所の本屋さんに置いてあった角幡さんの作品を「そこにある本」とばかりに大人買いしました。クラスの子どもたちにも勧めている、芋づる式読書の作者バージョンです。

 

www.countryteacher.tokyo

 

 大人買いした中で最初に読んだのが、これ。文庫特典として、巻末に宮坂学ヤフー会長との「脱システム」をめぐる対談が収録されている、エッセイ集『探検家の事情』です。表紙に映っている角幡さん、格好いいなぁ。私と同世代とは思えません。

 

 

 

 角幡唯介さんの『探検家の事情』を読みました。はじめてのエッセイ集『探検家、36歳の憂鬱』の続編にあたる作品です。前作よりも肩の力を抜いて書いたそうで、あとがきには《読者にもこいつアホだなぁと思って読んでもらえれば著者冥利につきる》とあります。おそらくはサンキストオレンジの女性も、その「著者冥利」の一端を担っているのでしょう。

 

 以下、著者冥利を巡る冒険。

 

 前作は「合コン」の話で始めたそうですが、今回の作品は「夫婦喧嘩」の話から始まります。タイトルは「不惑」。四十にして惑わず。

 40歳になる2ヶ月前に、それまで5年間ほど暮らした西武池袋線沿線を離れ、市ヶ谷の集合住宅に引っ越したという角幡夫婦。ところがその土地があまり合わなかったらしく、2歳の娘さんが「唄わないで、唄わないで」とそのたびに泣きわめくくらい夫婦喧嘩が絶えなかったとのこと。娘さんも、言葉の選択が、よい。そこで出てきたのが奥さんの《鎌倉にいい物件があるから、ちょっと見に行かない》というひとこと。

 

私は口をポカンと開けた。

 

 行ったこともないのに、ハイソなイメージが生理的にNGなのに、なぜ鎌倉に。そんな探検家の疑問をよそに、あれよあれよという間に現実味を帯びていく鎌倉の一軒家への引っ越し。そして住宅ローンという人生の足枷。自由を愛する探検家は、例えば《アラスカに移住してログハウスを建てる》といった、星野道夫的な将来の選択肢が狭まりつつあることを実感し、不惑にもかかわらず胃を痛めるほどのストレスを抱えることになります。白眉は、奥さんとのこのやりとりでしょうか。

 

「川越でも高幡不動でもいいじゃないか。もっと安いのがあったよ」
 そう言うと、千葉県出身の妻が千葉県出身者でなければわからない理由でブチ切れた。
「埼玉だけは絶対に嫌だって言ったのに。どうしてまたそういうことを言うの。本当に腹が立つ」
 そう言って目を赤く腫らして部屋の奥に閉じこもってしまった。

 

 うけます。何気ないひとことというか、何を言ってもパートナーを怒らせてしまう感じが伝わってきて、身につまされる思いとはいえ、他人事なのでおもしろい。そんな奥さんとの結婚指輪をグリーンランドでなくしてしまって《「あああああっ!」とこの世の終わりを迎えたかのような大声をあげた》という話も、よい。

 

冬山登山のときに「指輪をしていると指が凍傷になるかもしれないから、ヒモで首にかけておいてもいいかな」といくら許しを乞うても、「あなたの愛ってそんな程度で凍傷になるぐらいのものなの? 指輪をはずすぐらいなら凍傷になって、あなたの指がなくなったほうがいいわ」みたいな無茶苦茶なことを言って許してくれなかったほど、私が左手の薬指に指輪をはめていることにこだわる女なのだ。

 

 いわゆるのろけ話です。ウサギを解体した後に雪で手を洗っていたら、血糊と一緒に指輪もどこかに落としてしまったとのこと。ウサギの解体については、以下。こういう場面は、さすが探検家だなぁと思います。義務教育が目指す「生きる力」とはこのことかもしれません。ちょっと違うけど。

 

 というわけで私はウサギの群れを発見するたびに鉄砲で撃って食肉の確保にはげんだ。狩りに成功すると、すぐに皮剥ぎにかかる。皮は首のあたりにナイフで切れ目を入れて、そこに指をつっこんで引っ張れば簡単にむしり取れる。皮を剥いだら、腹部にナイフを入れて内臓をとりだし、レバーと心臓は自分の食事用にとりわけ、肺や腸など残りの大して旨くもない部分はイヌにくれてやる。

 

 たくましい。とはいえ、ウサギの世話をしている飼育委員会の子どもたちには酷な描写かもしれません。

 いずれにせよ、夫婦喧嘩が始まったと思ったら、今度はウサギや子連れのジャコウウシの母牛を狩るような場面が描かれ、その日常と非日常とのギャップが、よい。さらにはエッセイの合間合間に「忘れ得ぬ人 ~あの時、あの場所で」というタイトルで旅先で出会った人についてのポートレイト的な文章が入っていて、よい。大学の探検部に所属していたときに、他県の山に登るべく「無人駅で降りる」という技によって無賃乗車を繰り返していた話も、よい。探検を終えて帰国するたびに奥さんから「くさい」と言われ、最終的には「ただの加齢臭かな」と言われるベタなオチも、よい。イヌイットの村を舞台にした「人間とイヌ」というタイトルのエッセイも、読んでほしいから詳細は書かないけれど、議論する道徳の題材になりそうで、よい。

 

 よいよい尽くしのこの本。

 

 ちょうど5年生の国語の単元で、クラスの子どもたちが伝記を読みあさっているところなので、読ませたいなぁ、なんて思います。10年後には、植村直己さんや野口健さんを押しのけて、角幡唯介さんの本が図書室に面陳されているかもしれません。子どもたちにとっては、英雄的な行為だけが描かれている伝記よりも、小市民的日常の中に英雄的な行為が散りばめられている伝記の方が、リアリティーを感じることができると思うからです。植村直己さんはもちろんのこと、マザー・テレサやネルソン・マンデラのような定番の伝記だと、ちょっと遠い感じがしますから。

 

 もうひとつ。

 

 

 文庫の巻末にヤフー会長の宮崎学さんとの対談が載っています。20代、30代、そして40代50代と、年齢を重ねるにつれて変わっていく「人生観」について、興味深い会話が交わされています。キーワードは「飽きる」ということ。

 

角幡 でも、結局決め手は「飽き」なんですよね。
宮坂 「飽き」がキーワードになってきましたね。

 

 飽きると違うことがやりたくなります。授業づくりも、学級づくりも、いつもとは違ったことがやりたくなります。 新たなチャレンジは、すなわち探検のベースには「飽き」がある。だから「飽き」がやってくるとはいえ、

 

 年齢を重ねるのも、悪くない。

 

 行ってきます。

 

 

探検家、36歳の憂鬱

探検家、36歳の憂鬱

  • 作者:角幡 唯介
  • 発売日: 2012/07/23
  • メディア: 単行本