田舎教師ときどき都会教師

テーマは「初等教育、読書、映画、旅行」

神保哲生、宮台真司 著『格差社会という不幸』より。仕事でも消費でも自己実現しないけど、人生は楽しいぞ。

 そうじゃないでしょう。仕事は食いぶち。楽しみは趣味活動。これでいいはずです。どうしてそこまでして「仕事での自己実現」を求めるのか。昔の地域社会があれば――沖縄はいまもそうですが――所得が低くても夕方六時以降は泡盛パーティで盛り上がるような生活がありました。仕事でも消費でも自己実現しないけど、人生は楽しいぞ、みたいなね。
「仕事での自己実現」幻想から抜けだすには、絶えず他人を見て羨む「田吾作平等主義」の態度を克服せねばなりません。どうでもいい他人様から「ひとかど」に見えるかどうかなんてどうでもよい。親しい者たちが集うホームベースで感情的安全が保障されることのほうがずっと大切です。さもないと悪循環から抜けられません。
(神保哲生、宮台真司『格差社会という不幸』春秋社、2009)

 

 おはようございます。昨日、アベノマスクが届きました。いざ手元に届くと落ち着かない、なんてことは全くなく、社会の単元『わたしたちの生活と工業生産』のときに使えそうなのでこのままとっておくことにします。カジュアル衣料品(軽工業)店の「ユニクロ」も今夏のマスク販売に参入するというニュースが流れていたので、タイムリーな教材になるなぁ。

 アベノマスクではなく「ボタン」が届くのは、星新一さんの『ひとにぎりの未来』に収録されている「世界の終幕」です。世界中の人たちに間違って郵送されてしまった「押すと世界が消滅してしまう」ボタン。政府が回収を促す中、ある男がチェーホフの銃よろしく押すことを決意してしまいます。仕事での自己実現もできなかったし、友達もいないし、もういいかな。ポチッ。

 

 消滅世界。

 

 なんてことは全くなく、小規模な爆発が起きてその男の世界だけが消滅します。政府の思惑通り、SNSで誹謗中傷をするような寂しい輩がひとり減ったというわけです。星新一さんのショートショートを少し今風にアレンジしましたが、極端とはいえ、そんなひとにぎりの未来だったら、女子プロレスラーの木村花さんが自ら命を絶つようなこともなかったかもしれません。

 

 

 神保哲生さんと宮台真司さんの『格差社会という不幸』を再読しました。もうすぐ1000回目を迎える、ニュース専門インターネット放送局の「マル激トーク・オン・ディマンド」を書籍化した、シリーズものの7冊目です。ゲストに名前を連ねているのは、山田昌弘さん、斎藤貴男さん、本田由紀さん、堤未果さん、湯浅誠さん、鎌田慧さん、そして小林由美さんという錚々たるたる顔ぶれで、全体のテーマは「格差社会」。正確には、宮台さん曰く《公正ないし配分正義に関わる「格差問題」と、健康で文化的な最低限の生活を営む権利が脅かされる「貧困問題」の、両方》です。

 

 

 再読のきっかけは、一昨日の土曜日に放送された第998回目のマル激です。タイトルは「コロナ危機を日本のセーフティネットを張り替える機会に」、ゲストは財政学が専門の井手英策さん(慶應義塾大学経済学部教授)で、格差問題と貧困問題にダイレクトにつながる内容でした。視聴して比べるとわかりますが、09年に『格差社会という不幸』で描かれた不幸は、現在、より顕著なものになっているようです。

 

 社会を削って経済に盛る。

 

『格差社会という不幸』を読むと、日本は09年の段階ですでにそういったフェイズに入っていたことがわかります。以前は経済を回して社会を回していたものの、経済が立ち行かなくなり、社会を犠牲にせざるを得なくなった。自己責任という言葉も、長時間労働という悪夢も、セーフティネットの縮小という現実も、そういった状況とセットで考えると腑に落ちます。井手さんによれば、経済を回すためにも、税金を使って社会を分厚くしていくしかない。そういった議論が必要だ、云々。ちなみに冒頭の引用の最後にある「悪循環」というのは、次のような状態を意味します。

 

 悪循環というのは、EU諸国の年間労働時間が1400時間前後なのに(米国は1700時間台)日本は1900時間台で、サービス残業を含めると2200時間になるとまで言われながら、GDPは確かに世界2位だけれど、個人あたりGDPは世界19位、自殺率は英国の3倍、米国の2倍、幸福度調査では世界75位ないし90位、という状態が意味するものです。

 

 宮台さんによると、2020年の今、これらの数値はさらに悪化しているとのこと。幸せだったら、SNSで誹謗中傷したりしませんからね。それに2200時間も働いていたら、ホームベースだってつくれないし、感情的安全だって得られません。

 

 自助、共助、そして公助。

 

 前年度まで5年生の国語の教科書に載っていた『百年後のふるさとを守る(稲村の火)』に《ほかのものにたよるのではない、自助の意識と共助の意識である。現代でもいえることだが、これがなくては、災害後の真の再生は望めない。今日ならば、ここに町や県、国などの公助が加わるのは当然である》とあります。社会を削って経済に盛るというのは、《当然である》とされる公助が削られるということです。では、公助の前にあったはずの自助や共助が残っているのかといえば、或いは育っているのかといえば、それは怪しい。教員の立場からすると、学校が時間度外視でがんばった結果、家庭も地域も学校化してしまって、自助や共助の意識を伴わない「仕事での自己実現」幻想が強くなってしまったように思えるからです。もちろん、学校は社会よりも小さいので、それだけが原因ではありませんが。

 

www.countryteacher.tokyo

 

 日本の場合、見ず知らずの相手さえ、その反応がダイレクトに自意識と結びつきます。他人様の承認がないと自意識のホメオスタシスを保てません。これだと右往左往する不安ベースの実存になります。「ホームベースがありさえすれば他人からの承認は関係ない」という志向を育てないと、見栄をはるために自分の幸せを犠牲にするのをやめられません。

 

 日本の公教育についていえば、学校にいる時間が長くなれば長くなるほど、その授業スタイル故に「ホームベースがありさえすれば他人からの承認は関係ない」という志向が削られていくような気がします。他人の目線だらけですからね、学校は。

 自己実現だけが人生じゃない。仕事でも消費でも自己実現しないけど、人生は楽しいぞ。そういったことを学ぶ「チャンネル」を増やしていくためにも、学校はもっとスリム化したほうがいい。でも、現実はなかなか難しい。コロナ禍を転じて福となす。最近そればっかりで、もはや神頼みです。

 

 ひとにぎりの未来。

 

 行ってきます。  

 

 

ひとにぎりの未来 (新潮文庫)

ひとにぎりの未来 (新潮文庫)

  • 作者:新一, 星
  • 発売日: 1980/05/27
  • メディア: 文庫