田舎教師ときどき都会教師

テーマは「小学校教員の働き方と生き方」&「本、旅、人」

映画『JOKER』と「路上生活者の避難所受け入れ拒否問題/台東区」について

 だが、本当に、本当に、大事なことは、たとえば平日の昼間に、どうしても観たい芝居やライブがあれば、職場に申し出て、いつでも気軽に休みが取れるようにすることだ。職場の誰もが、「あいつサボっている」などと感じずに、「なんだ、そんなことか、早く言ってくれよ。その仕事なら俺がやっておくよ。舞台を楽しんできな」と言い合える職場を作ることだ。
 それが、私の考えるコミュニケーションデザインであり、コミュニティデザインだ。そのためのコミュニケーション教育だ。
 競争と排除の論理から抜け出し、寛容と包摂の社会へ。
平田オリザ『下り坂をそろそろと下る』講談社現代新書、2016)

 

 昨夜(平日の昼間はまだ難しい😰)、話題の映画『JOKER』(トッド・フィリップス監督)を観てきました。R15指定だけあって、目を背けたくなるような凄惨なシーンがいくつもあり、「ダークナイト」な気分で映画館をあとにしましたが、ヴェネチア国際映画祭で最高位の金獅子賞を受賞した作品だけあって、批評性にはめちゃくちゃ富んだ映画だなぁと思いました。まだ観ていなかったら、ぜひ。とはいえ、家族や恋人と観に行くようなものではありません。

 

 あぁ、気持ち悪かった。

 

Joker (Original Soundtrack)

Joker (Original Soundtrack)

 

 

 映画『JOKER』の舞台は70年代のニューヨーク。殺伐とした犯罪都市を舞台に、不幸な生い立ちをもつ主人公のアーサーが、社会からの「排除」と、正当防衛(?)の延長にあった「殺人」をきっかけに、善人から悪人へと墜ち、社会に敵対する脱社会的存在として、とんでもない事件を起こす、というのがあらすじです。

 

 映画を観ながら連想したことが2つ。

 

 1つ目は、タイトルである「JOKER」のニュアンスが、にしむらひろゆきさん(匿名掲示2ちゃんねるの開設者)の提唱している「無敵の人」とかぶるなぁ、と思ったこと。

 

 生い立ちに恵まれず、
 社会に居場所もなく、
 守るべきものもない、無敵の人。

 

 無敵の人=ジョーカー。人は、いつ、どんなことをきっかけにして、ジョーカーになるのか。映画『JOKER』は、無敵の人の誕生譚ともいえます。

 

 2つ目は、東京都の台東区がしでかした「(台風19号の接近にともなう)路上生活者の避難所受け入れ拒否問題」のこと。平田オリザさんのいう「寛容と包摂」の論理ではなく、「競争と排除」の論理を前面に押し出した、受け入れ拒否という決定。

 

 あり得ない。

 

 案の定、SNSですぐに拡散され、人権侵害として炎上していました。あの日、嵐の中に放り出された路上生活者の中から「ジョーカー」が生まれたとしても不思議ではありません。

 

 日本語を話せない外国の児童。
 虐待を受けている児童。
 障碍をもつ児童。

 

 小学校や中学校が、そういった児童の受け入れを拒否したら、炎上どころの騒ぎではすまされません。それくらいあり得ないことを台東区はしでかしてしまっています。もしかしたら教員と同じように過労死レベルで働いていて判断力が鈍っていたのかもしれませんが、それにしても、ひどい話です。

 

 大切なのは想像力。

 

 映画『JOKER』は、受け入れ拒否の決定に関与した人たちにこそ、或いは小学校のクラスづくりなども含め、大なり小なりコミュニティーづくりに関わっている人たちにこそ、(R15指定で気持ち悪いけど)お勧めの映画なのかもしれません。

 

 あっ、似た話を思い出しました。

 

 昔、繁華街にあるセブンイレブンでアルバイトをしていたときのこと。賞味期限の切れた菓子パンをお店の裏手にあるゴミ捨て場に持っていったところ、路上生活者に「兄ちゃん、それくれないかな」と言われたことがあります。続けて「俺、3日間何も食ってないんだよ」云々。

 寛容と包摂をとるか、競争と排除をとるか。その分け方自体が違うかもしれませんが、道徳の授業で取り上げ、子どもたちと一緒に考えたこともあります。

 

 みなさんだったら、どうしますか?

 

 最後に、社会学者の宮台真司さんが『JOKER』のプログラムに寄稿した文章を引きます。《かつて天使だったアーサーは堕天使化したが、社会をまともに生きられない天使族が墜ちずにいられるか否かを決めるものは何か。もはや多言を要すまい》。さすが宮台さんだ🎵

 

 何かわかりますか?

 

 正解は映画館で!