評価というものの問題点を考える必要がある。評価とは、他者の目による規定である。他者に規定されている自分は、主体性を欠く。「あの人に批判されるといけないから、やる」となってしまうのである。外部評価は全否定はしないけれど、そのダークサイドには意識的である必要がある。
(岩田健太郎『主体性は教えられるか』筑摩書房、2012)
おはようございます。仕事始めが近づいています。ダークサイドに落ちかけている人も多いのではないでしょうか。私は一足先にダークサイドに引きずり込まれてしまいました。昨日書いたブログにひとつも「いいね」(Twitter)がつかなかったからです。ブログを書き始めた頃は全く気にしていなかったのに、何度か作家さん御本人がリツイートしてくれたこと(めちゃくちゃ嬉しかった!)がきっかけとなって、副作用的に反応が気になるようになってしまいました。「書く」を「遊ぶ」に例えれば、夢中になって遊んでいただけなのに、他者の目を意識した途端に主体性が後退して楽しめなくなってしまった。そんな感じです。じゃあやめればって話なのですが、精神衛生上、ダークサイドに引きずり込まれたままやめるわけにはいきません。ブログの記事が連れてきたライトサイドでの出逢いもあったし、なんとかして主体性を取り戻したい。そんなわけで、医師の診断を仰ぐことにしました。
『主体性は教えられるか』の著者である岩田健太郎さんは、医師の友人曰く「感染症医のプリンス」と呼ばれるお医者さんです。神戸大学の教授でもあります。日本だけでなく、アメリカや中国、そしてカンボジアでも医師として働いた経験があることから、いわゆる「思い込みの相対化」もできている人です。まだ40代なのに著書も50冊近くあって、そのどれもがことごとくおもしろい。プリンスと呼ばれるだけのことはあります。
米国人や中国人と比較しても、日本人の「主体性の欠如」は抜きんでている。
きっとカルロス・ゴーンもそう思っています。国民に主体性があって、一人ひとりの思考がフル回転していたとしたら、こんな八百長司法制度が何十年も続くわけがないって。刑事裁判で起訴されたら99.9%が有罪になるなんて、教員の定額働かせ放題と同じくらいおかしいって。
主体性の欠如と思考停止。
その土壌は「効率を重視する」教育にあるのではないか、というのがプリンスこと岩田健太郎さんの見立てです。
同意。
主体性は教えることはできるのかという点について、著者は懐疑的です。「主体性」を「教える」という行為は、そもそも背理しているからです。だから著者は、日本の教育が主体性を教えることに失敗していると見立てているわけではありません。主体性を教えることができるかどうかはわからない。ただし主体性を衰えさせたり、主体性の涵養を阻むような教育の在り方はあるのではないか。日本の教育は昔も今もそれをやっちゃっているのではないか。著者は、そう考えています。
もしもカルロス・ゴーンがクラスにいたとしたら。
きっと面倒くさいですよね。じっとしていろって指示を出しているのに教室から勝手に出て行ったり、何度も説明しているのに「そんなことで公正な裁判(a fair trial)は期待できるんだろうか?」と同じ質問をぶつけてきたり。他の39人は空気を読んで口を閉じたままじっとしているのに。
彼を相手にしていたら、クラスにいる他の39人に示しがつきません。法令遵守を求める保護者にだって、何を言われるかわかりません。保護者の多くは、40人全員が同じ内容を同じ方法、同じペースで学んでいる教室をよしとします。我が子が周りの子と同じように学んでいる姿を見て安心します。そんな中で彼の自主性だけを尊重したら、下手をしたら「指導力不足教員だ!」なんて言われかねません。保護者対応までしなくてはいけなくなって、非効率極まりない。
カルロス・ゴーンと同じく、他者の目による規定から自由な堀江貴文さんが紹介していたブログです。堀江さんは、日本のマスコミがこれを報道することはないだろうという趣旨のことを書いていました。マスコミは他者(政権)の目に規定されているからです。日本全国、どこもかしこも主体性を欠く主体ばかり。
主体性は教えられるか。
子どもたちの主体性を損なわないために、学校としてできることは「他者の目による規定をゆるくすること」になるでしょうか。授業のはじまりの「起立、礼、よろしくお願いします」という号令や、キャラクターものの筆箱はNGといった学校スタンダードなど、「みんなと同じことができているかどうか」という視点で評価したり指導したりするのは、ほどほどにしたほうがいい。そして、主体性が損なわれるかもしれないという「ダークサイド」には、常に意識的であったほうがいい。誰かが言ったように、子どもたちの可能性を狭めるのは、いつだって大人たちですから。
フォースと共に!
主体性をもって!