従来型の医学部の授業は、ようするに「これはウォッカだぞ、飲んでみろ」と言われて「なるほど、たしかにこれはウォッカですね」と教え子が得心するようなものでした。こういうやり方をいくら繰り返しても、ブラインドテイスティングでは外してしまうのです。
ブラインドテイスティングに強くなる方法はただ1つ。ブラインドでプラクティスするよりほかありません。事前情報なしに、後知恵で説明することなしに。
(岩田健太郎『99・9%が誤用の抗生物質』光文社新書、2013)
こんばんは。2020年1月16日の23時22分です。アメリカでは、まだ朝。そのアメリカで「これはウォッカだぞ、飲んでみろ」と言われて「なるほど、たしかにこれはウォッカですね」と答えた教え子が逮捕されたのは今からちょうど100年前の1月16日。1920年のことです。ここまで読んで「そうか」と思ったあなたはきっと歴史オタク。そうです、1920年1月16日は、悪名高き禁酒法がアメリカ全土で実施された日です。
酒をなめんなよ。
こんばんは。2020年も、もう半月が過ぎてしまいました。センター試験を明後日に控えた受験生たちも、早いなぁって、そう思っているのではないでしょうか。センター試験の問題は医者になるための適性をはかるためにつくられたらしい。受験生だった頃に、そんな話を聞いたことがあります。早く正確に解答する力は、早く正確に診断したり手術したりする力につながる、というわけです。ホントの話でしょうか。《日本の医者は診断が苦手》という岩田健太郎さんの『99・9%が誤用の抗生物質』を読むと、眉唾だなぁ、と思ってしまいます。
冒頭のブラインドテイスティングの話は、上記の本の第4章「臨床をなめんなよ」からの引用です。
臨床をなめんなよ。
「息が苦しい」という患者さんがやってきたときに、それが心不全によるものなのか肺炎によるものなのか貧血によるものなのか、或いは別の病気によるものなのか、医師は多様な文脈と可能性の中で判断しなければなりません。それが診断です。だから正しい診断のためには多様な文脈と可能性を想像する力が必要となります。
その想像力が、大学病院の縦割り構造や臓器別構造、いわゆる「たこつぼ」状態によって損なわれてしまっている。岩田健太郎さんはそう指摘します。専門領域しか知らなければ、多様な文脈と可能性を想像することはできません。
さらに、実験室ベースの基礎医学と病院ベースの臨床医学を比較し、基礎医学の研究成果と違って臨床医の能力は数値で評価することが難しいために、優れた臨床医が組織のトップ(教授)になりにくい(!)と指摘します。教育に置き換えれば、これは「優れた学級担任が管理職になりたがらない」問題と重なります。
専門領域しか知らない、基礎医学の領域(実験室)から出てきた人たちが教授となり、学生に医学を教えている。言い換えれば、ブラインドテイスティングに強くない人たちがブラインドテイスティングを教えている。だから《日本の医者は診断が苦手》になる。冒頭の引用の続きは、そういった話です。
教室をなめんなよ。
「計算ができない」という子どもがいたときに、それが努力も含めた能力によるものなのか家庭環境によるものなのか発達障害によるものなのか、或いは別の理由によるものなのか、教師は多様な文脈と可能性の中で判断しなければなりません。それが評価です。だから正しい評価のためには多様な文脈と可能性を想像する力が必要となります。
医師と違って、専門領域的な「たこつぼ」化は生じていないものの、力量不足と劣悪な労働環境でブラインドテイスティングを外しまくっているのが教師のリアルです。正しい評価は難しい。サポートがなければ、学級という「たこつぼ」状態の中で病むことになります。
さらに、学級経営や学年経営に長けている先生は管理職になりたがらないという傾向が、病んでいく先生たちの増加に拍車をかけます。学校経営を担う管理職の中に、学級経営や学年経営が得意ではなかった人が結構な割合で紛れ込んでいるという事実があり、組織マネジメントが得意ではない人たちが管理するのだから、当然、組織の構成員である先生たちは病むというわけです。
臨床も教室もなめんなよ。
もともとは臨床医学ではなく基礎医学に進もうとしていたのに《実際に実臨床の訓練を受けると、これがじつに奥が深い。ちょっとやそっと「手をつけた」程度では、とても使えるようになりません》と、その多様な文脈と可能性に魅せられ、そのままズルズルと臨床医になってしまったという岩田健太郎さん。奥深さに魅せられた人は、学校の先生にも多いような気がします。臨床に負けず劣らず、教室も、じつに奥が深い。
これはウォッカだぞ、飲んでみろ。
おやすみなさい。