田舎教師ときどき都会教師

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岩瀬直樹、寺中祥吾 著『せんせいのつくり方』より。一つの出来事、小さな違和感。そこを丁寧に考える。

 数年前、オランダの小学校に参観に行ったときのこと。その学校には宿題がないというので驚いた。理由をたずねるとおおよそこんな答えだった。
 『学校でのことは学校で終えるべき。おとなになって仕事をするときも職場で決まった時間のなかで終わらせることが大切。遅くまで残ってやったり、仕事をもち帰るというのは能力がないと見なされる。それに家での余暇の時間を充実したものにするのはとても大切なこと。
 子どものころから、家での時間は自分たちの時間として充実した時間にする練習をしておかないと、おとなになったときにそうできなくなる。そもそも宿題がある理由はなんですか?』
(岩瀬直樹、寺中祥吾 著『せんせいのつくり方』旬報社、2014)

 

 こんばんは。勤務校では担任も専科も毎学期1回必ず授業を開き、放課後に各学年部(低中高個)で検討の場をもちます。今日授業を開いたのは5年生を受けもっている20代の先生。クラスの「あり方」であったり、授業の「やり方」であったりに、もと教員の岩瀬直樹さんのフレイバーがふんわりと漂っていて、

 

 あぁ、ここにも。

 

 検討会のときにはミドルの先生が岩瀬さんの『よくわかる学級ファシリテーション』を参考にしてつくったという話合いの手引きを見せてくれて、

 

 あぁ、ここにも。

 

 公立の教員を辞してからも、陰に陽に、公教育に影響を与え続けている岩瀬さん(現在は軽井沢風越学園の校長および軽井沢風越幼稚園の園長を兼任)。もしも本当の意味で「教師のバトン」というものが存在するのだとしたら、それは岩瀬さんが私たちに託してくれたものではないでしょうか。

 

 

 岩瀬直樹さんと寺中祥吾さんの共著『せんせいのつくり方』を再読しました。副題は ”これでいいのかな” と考えはじめた ”わたし” へ。監修はプロジェクトアドベンチャー(PA)ジャパン、ワーク・編集は阿部有希さんです。

 ワークという言葉から想像できるように、ところどころに「書いてください」というようなページがあって、参加型の授業を得意とする岩瀬さんらしいというか、PAのトレーナーである寺中さんらしいというか、いずれにせよ二人の「やり方」と「あり方」が反映された一冊になっています。

 

 せんせいのつくり方は?

 

 目次は以下。

 

 第1章 「あたりまえ」を問いなおす
 第2章 先生としての「わたし」、自分自身としての「わたし」
 第3章 「これでいいのかな」と考えはじめた「わたし」へ
 第4章 めざしたいクラスを探している「わたし」へ
 第5章 「やり方」か「あり方」か、悩んでいる「わたし」へ

 

第1章 「あたりまえ」を問いなおす

 先生と呼ばれるようになってから何年か経って、もしもあなたが「これでいいのかな」と考えはじめたら、最初にやるべきことはアンラーン、いわゆる学びほぐしです。私の場合は30歳のときに「これでいいのかな」が来ました。

 

「先生」を学びほぐして「せんせい」をつくる。

 

 そのためには「あたりまえ」を問いなおすという「問いストーリー」に身を委ねなければいけません。冒頭に引用した「宿題」とか、それから「起立」とか「礼」とか「着席」とか、そういった「魚が何を話しているかを知ることは難しいが、水のことでないのは確かだ」という外国の古いジョークでいうところの「水」にあたるものに目を向ける必要があるということです。

 

 運動会絶対勝つぞー(!)という水。

 

 僕はクラスのまとまりを第一に考えて学級経営をしている時期がありました。「運動会絶対勝つぞー!」なんて目標を立てて、その目標に向かってみんなで協力し合ってぐいぐい進んでいく。そんなクラスの一体感と凝集性を活かしてボクは学級をまとめてきました。子どもたちは燃え、「いいクラス」として多くの子どもたちも保護者も、そしてボクも疑いなく過ごしていました。

 

 時期がありました、という表現からわかるように、岩瀬さんはこの「いいクラス」にあるとき疑問、すなわち問いをもちます。問いストーリーのはじまりです。

 

第2章 先生としての「わたし」、自分自身としての「わたし」

 冒頭の引用はこの第2章からとったものです。宿題云々というよりも、後半の《家での時間は自分たちの時間として充実した時間にする練習をしておかないと、おとなになったときにそうできなくなる》という警句に「忙しすぎる私たち」は耳を傾ける必要があるのではないでしょうか。なぜなら、先生としての「わたし」だけが24時間の大半を占めるようになると、自分自身としての「わたし」が痩せ細っていくからです。自分自身としての「わたし」の充実を脇に寄せると、自分を大切にしないという「あり方」が教室に反映されてしまって、子どもたちに過労死の種を蒔くことになります。

 

 そうならないためにはどうするか。

 

 もう一つ、とても大切だと考えていること。
 それは学校という一つのコミュニティだけでなく、いくつかのコミュニティに所属している自分である、ということだ。

 たとえば職場、家族、サークル、趣味、地域、研究会、NPO。いくつものコミュニティに所属していて、それぞれいろんな「自分」がある。その共通部分としての自分。
 それによって、自分にバランスがとれていく。

 

 小説家の平野啓一郎さんいうところの「個人(individual)から分人(dividual)へ」という考え方と同じです。

 

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第3章 「これでいいのかな」と考えはじめた「わたし」へ

「これでいいのかな」と考えはじめた「わたし」が、第2章に書かれている自分自身としての「わたし」をバランスよくかたちづくるようになると、教室で見聞きする一つひとつの出来事に対する解像度が高まります。寺中さんがいうところの《引いてみる視点》です。そしてこの高まった解像度、あるいは引いてみる視点によって、それまでは感じることのできなかった小さな違和感を拾うことができるようになります。

 

 拾ったら、使える。

 

 一つの出来事、小さな違和感。

 そこを丁寧に考えてみると、
 「自分が何を大事にしているのか」が見えてくる。
 そしてそこから、わたしの「先生としての仕事」が少し浮かび上がってくる。

 

 違和感を拾って、何に使うのかといえば、それこそが「せんせい」をつくる上での材料となるというわけです。

 

第4章 めざしたいクラスを探している「わたし」へ

 岩瀬さんが拾った違和感のひとつが「凝集性」です。大縄大会に向けての取り組みの中で拾った《凝集性に関する違和感》がきっかけとなって、この本の企画がスタートしたとのこと。

 

 こんな話。

 

 2週間後に8の字飛びの大縄大会がある、みんなで話合って5分間で400回というクラス目標を立てた、その目標に向けて中休みも練習することになった、でもクラスの中には大縄イヤだなぁと思っている子がいる。さて、あなたはその子をどうするか。その子を含めたクラスをどうするか。めざしたいクラスを考える上で、担任あるあるの話ではないでしょうか。凝集性の裏にある排他性に目を瞑って、クラスの一体感を優先するべきか否か。

 

 自戒を込めて、「凝集することの気持ちよさ」にも自覚的でありたいなあと思っています。

 

 これは寺中さんの言葉です。学級王国の気持ちよさと言い換えることができるでしょうか。日本人特有の集団主義のマイナス面を考えれば、義務教育段階で「凝集しないことの気持ちよさ」を教えることにも自覚的でありたいなあと思います。

 

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第5章 「やり方」か「あり方」か、悩んでいる「わたし」へ

 さて、せんせいをつくるに当たって大切になるのはどっちでしょうか。もちろん「どっちも」が答えです。ただし経験的に、順序としては「やり方」から入って「あり方」が浮かんできて、浮かんできた「あり方」をもとに「やり方」を見直して、という繰り返しのような気がします。第2章でいえば、先生としての「わたし」から入って自分自身としての「わたし」が浮かんできて、浮かんできた自分自身としての「わたし」をもとに先生としての「わたし」を見直して、という繰り返しです。やがて「やり方」と「あり方」は渾然一体に。

 

 大切なのは「やり方」に固執しないということ。

 

 だから、「やり方」を絶対視するのはダメ、だと考えています。
 やっている最中に、
「ん? なんか違う気がするな」
 という、小さな違和感を見つけたら。そこがとてつもなく重要なんだと思います。そこを丁寧に掘り下げていく。

 

 岩瀬直樹さんの「やり方」を絶対視してそこでストップしてはダメ。入口としてはOK、でも出口としてはダメということです。出口にはやはり、自分自身としての「あり方」がベースにほしい。あなたはあなたにしかなれないのだから。

 

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 上記のブログをツイートしたところ、岩瀬さんから以下のリプをいただきました。絶対視しそうなくらい嬉しかったです。

 

 

 そうか、10年も前なのか。小さな、いや、大きな違和感です。

 

 丁寧に考えます。

 

 おやすみなさい。